は赤くかすかに、陰《かげ》は暗くあまねくこのすすけた土間をこめて、荒くれ男のあから顔だけが右に左に動いている。
 文公は恵まれた白馬《どぶろく》一本をちびちび飲み終わると飯を初めた、これも赤んぼをおぶった女主人《かみさん》の親切でたらふく食った。そして、出かけると急に亭主がこっちを向いて、
「まだ降ってるだろう、やんでから行きな。」
「たいしたことはあるまい。みなさん、どうもありがとう」と、穴だらけの外套《がいとう》を頭からかぶって外へ出た。もう晴《あが》りぎわの小降りである。ともかくも路地をたどって通りへ出た。亭主《ていしゅ》は雨がやんでから行きなと言ったが、どこへ行く? 文公は路地口の軒下に身を寄せて往来の上下《かみしも》を見た。幌人車《ほろぐるま》が威勢よく駆けている。店々のともし火が道に映っている。一二丁先の大通りを電車が通る。さて文公はどこへ行く?
 めし[#「めし」に傍点]屋の連中も文公がどこへ行くか、もちろん知らないがしかしどこへ行こうと、それは問題でない。なぜなれば居残っている者のうちでも、今夜はどこへ泊まるかを決めていないものがある。この人々は大概、いわゆる居所不明、もしくは不定な連中であるから文公の今夜の行く先など気にしないのも無理はない。しかしあの容態では遠からずまいっ[#「まいっ」に傍点]てしまうだろうとは文公の去ったあとでのうわさであった。
「かわいそうに。養育院へでもはいればいい。」と亭主《あるじ》が言った。
「ところがその養育院というやつは、めんどうくさくってなかなかはいられないという事だぜ。」と客の土方の一人が言う。
「それじゃア行き倒れだ!」と一人が言う。
「たれか引き取り手がないものかナ。ぜんたい野郎はどこの者だ。」と一人が言う。
「自分でも知るまい。」
 実際文公は自分がどこで生まれたのか全く知らない、親も兄弟もあるのかないのかすら知らない、文公という名も、たれ言うとなくひとりでにできたのである。十二歳ごろの時、浮浪少年とのかどで、しばらく監獄に飼われていたが、いろいろの身のためになるお話を聞かされた後、門から追い出された。それから三十いくつになるまで種々な労働に身を任して、やはり以前の浮浪生活を続けて来たのである。この冬に肺を病んでから薬一滴飲むことすらできず、土方にせよ、立ちん坊にせよ、それを休めばすぐ食うことができないのであった。
「もうだめだ」と、十日ぐらい前から文公は思っていた。それでもかせげるだけはかせがなければならぬ。それできょうも朝五銭、午後《ひる》に六銭だけようやくかせいで、その六銭を今めし[#「めし」に傍点]屋でつかってしまった。五銭は昼めしになっているから一|文《もん》も残らない。
 さて文公はどこへ行く? ぼんやり軒下に立って目の前のこの世のさまをじっと見ているうちに、
「アヽいっそ死んでしまいたいなア」と思った。この時、悪寒《おかん》が身うちに行きわたって、ぶるぶるッとふるえた、そして続けざまに苦しい咳《せき》をしてむせび入った。
 ふと思いついたのは、今から二月前に日本橋のある所で土方をした時知り合いになった弁公という若者《わかいの》がこの近所に住んでいることであった。道悪《みちわる》を七八丁|飯田町《いいだまち》の河岸《かし》のほうへ歩いて暗い狭い路地をはいると突き当たりにブリキ葺《ぶき》の棟《むね》の低い家がある。もう雨戸が引きよせてある。
 たどり着いて、それでも思い切って、
「弁公、家《うち》か。」
「たれだい。」と内からすぐ返事がした。
「文公だ。」
 戸があいて「なんの用だ。」
「一晩泊めてくれ。」と言われて弁公すぐ身を横によけて
「まアこれを見てくれ、どこへ寝られる?」
 見ればなるほど三畳敷の一間《ひとま》に名ばかりの板の間と、上がり口にようやく下駄《げた》を脱ぐだけの土間とがあるばかり、その三畳敷に寝床が二つ敷いてあって、豆ランプが板の間の箱の上に載せてある。その薄い光で一ツの寝床に寝ている弁公の親父《おやじ》の頭がおぼろに見える。
 文公の黙っているのを見て、
「いつものばばアの宿へなんで行かねえ?」
「文《もん》なしだ。」
「三晩や四晩借りたってなんだ。」
「ウンと借りができて、もう行けねえんだ。」と言いさま、咳《せき》をして苦しい息を内に引くや、思わずホッと疲れ果てたため息をもらした。
「からだもよくないようだナ。」と、弁公初めて気がつく。
「すっかりだめになっちゃった。」
「そいつは気の毒だなア」と内と外でしばし無言でつっ立っている。するとまだ寝つかれないでいた親父が頭をもたげて、
「弁公、泊めてやれ、二人寝るのも三人寝るのも同じことだ。」
「同じことは一つこった。それじゃア足を洗うんだ。この磨滅下駄《ちびげた》を持って、そこの水道で洗
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