あった。
「もうだめだ」と、十日ぐらい前から文公は思っていた。それでもかせげるだけはかせがなければならぬ。それできょうも朝五銭、午後《ひる》に六銭だけようやくかせいで、その六銭を今めし[#「めし」に傍点]屋でつかってしまった。五銭は昼めしになっているから一|文《もん》も残らない。
さて文公はどこへ行く? ぼんやり軒下に立って目の前のこの世のさまをじっと見ているうちに、
「アヽいっそ死んでしまいたいなア」と思った。この時、悪寒《おかん》が身うちに行きわたって、ぶるぶるッとふるえた、そして続けざまに苦しい咳《せき》をしてむせび入った。
ふと思いついたのは、今から二月前に日本橋のある所で土方をした時知り合いになった弁公という若者《わかいの》がこの近所に住んでいることであった。道悪《みちわる》を七八丁|飯田町《いいだまち》の河岸《かし》のほうへ歩いて暗い狭い路地をはいると突き当たりにブリキ葺《ぶき》の棟《むね》の低い家がある。もう雨戸が引きよせてある。
たどり着いて、それでも思い切って、
「弁公、家《うち》か。」
「たれだい。」と内からすぐ返事がした。
「文公だ。」
戸があいて「なんの用だ。」
「一晩泊めてくれ。」と言われて弁公すぐ身を横によけて
「まアこれを見てくれ、どこへ寝られる?」
見ればなるほど三畳敷の一間《ひとま》に名ばかりの板の間と、上がり口にようやく下駄《げた》を脱ぐだけの土間とがあるばかり、その三畳敷に寝床が二つ敷いてあって、豆ランプが板の間の箱の上に載せてある。その薄い光で一ツの寝床に寝ている弁公の親父《おやじ》の頭がおぼろに見える。
文公の黙っているのを見て、
「いつものばばアの宿へなんで行かねえ?」
「文《もん》なしだ。」
「三晩や四晩借りたってなんだ。」
「ウンと借りができて、もう行けねえんだ。」と言いさま、咳《せき》をして苦しい息を内に引くや、思わずホッと疲れ果てたため息をもらした。
「からだもよくないようだナ。」と、弁公初めて気がつく。
「すっかりだめになっちゃった。」
「そいつは気の毒だなア」と内と外でしばし無言でつっ立っている。するとまだ寝つかれないでいた親父が頭をもたげて、
「弁公、泊めてやれ、二人寝るのも三人寝るのも同じことだ。」
「同じことは一つこった。それじゃア足を洗うんだ。この磨滅下駄《ちびげた》を持って、そこの水道で洗
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