かった、二十年ぶりに豊吉は帰って来た、しかも「ひげ」の「五年十年」には意味があるので、実にあたったのである。すなわち豊吉はたちまち失敗してたちまち逃げて帰って来るような男ではない、やれるだけはやって見る質《たち》であった。
さて「杉の杜《もり》のひげ」の予言はことごとくあたった。しかしさすがの「ひげ」も取り逃がした予言が一つある、ただ幾百年の間、人間の運命をながめていた「杉の杜」のみは予《あらかじ》め知っていたに違いない。
夏の末、秋の初めの九月なかば日曜の午後一時ごろ、「杉の杜」の四辻にぼんやり立っている者がある。
年のころは四十ばかり、胡麻白頭《ごましろあたま》の色の黒い頬《ほお》のこけた面長《おもなが》な男である。
汗じみて色の変わった縮布《ちぢみ》の洋服を着て脚絆《きゃはん》の紺《こん》もあせ草鞋《わらじ》もぼろぼろしている。都からの落人《おちびと》でなければこんな風《ふう》をしてはいない。すなわち上田豊吉である。
二十年ぶりの故郷の様子は随分変わっていた。日本全国、どこの城下も町は新しく変わり、士族小路は古く変わるのが例であるが岩――もその通りで、町の方は新しい建物もでき、きらびやかな店もできて万《よろず》、何となく今の世のさまにともなっているが、士族屋敷の方はその反対で、いたるところ、古い都の断礎《だんそ》のような者があって一種言うべからざる沈静の気がすみずみまで行き渡っている。
豊吉はしばらく杉の杜の陰で休んでいたが、気の弱いかれは、かくまでに零落《おちぶ》れてその懐《なつ》かしい故郷に帰って来ても、なお大声をあげて自分の帰って来たのを言いふらすことができない、大手を振って自分の生まれた土地を歩くことができない、直ちに兄の家《うち》、すなわち自分の生まれた家に行くことができない。
かれは恐る恐るそこらをぶらつき初めた。夢路《ゆめじ》を歩む心地《ここち》で古い記憶の端々《はしばし》をたどりはじめた。なるほど、様子が変わった。
しかしやはり、変わらない。二十年|前《まえ》の壁の穴が少し太くなったばかりである、豊吉が棒の先でいたずらに開《あ》けたところの。
ただ豊吉の目には以前より路幅《みちはば》が狭くなったように思われ、樹《き》が多くなったように見え、昔よりよほどさびしくなったように思われた。蝉《せみ》がその単調な眠そうな声で鳴いている、寂《しん》とした日の光がじりじりと照りつけて、今しもこの古い士族屋敷は眠ったように静かである。
杉の生垣《いけがき》をめぐると突き当たりの煉塀《ねりべい》の上に百日紅《ひゃくじつこう》が碧《みどり》の空に映じていて、壁はほとんど蔦《つた》で埋もれている。その横に門がある。樫《かし》、梅、橙《だいだい》などの庭木の門の上に黒い影を落としていて、門の内には棕櫚《しゅろ》の二、三本、その扇めいた太い葉が風にあおられながらぴかぴかと輝《ひか》っている。
豊吉はうなずいて門札を見ると、板の色も文字の墨も同じように古びて「片山四郎」と書いてある。これは豊吉の竹馬《ちくば》の友である。
『達者《たっしゃ》でいるらしい、』かれは思った、『たぶん子供もできていることだろう。』
かれはそっと内をのぞいた。桑園《くわばたけ》の方から家鶏《にわとり》が六、七羽、一羽の雄に導かれてのそのそと門の方へやって来るところであった。
たちまち車井《くるまい》の音が高く響いたと思うと、『お安、金盥《かなだらい》を持って来てくれろ』という声はこの家の主人《あるじ》らしい。豊吉は物に襲われたように四辺《あたり》をきょろきょろと見まわして、急いで煉塀《ねりべい》の角《かど》を曲がった。四辺《あたり》には人らしき者の影も見えない。
『四郎だ四郎だ、』豊吉はぼんやり立って目を細くして何を見るともなくその狭い樹《き》の影の多い路の遠くをながめた。路の遠くには陽炎《かげろう》がうらうらとたっている。
一匹の犬が豊吉の立っているすぐそばの、寒竹《かんちく》の生垣の間から突然現われて豊吉を見て胡散《うさん》そうに耳を立てたが、たちまち垣の内で口笛が一声二声高く響くや犬はまた駆け込んでしまった。豊吉は夢のさめたようにちょっと目をみはって、さびしい微笑を目元に浮かべた。
すると、一人の十二、三の少年《こども》が釣竿《つりざお》を持って、小陰から出て来て豊吉には気が付かぬらしく、こなたを見向きもしないで軍歌らしいものを小声で唱《うた》いながらむこうへ行く、その後《あと》を前の犬が地をかぎかぎお伴《とも》をしてゆく。
豊吉はわれ知らずその後《あと》について、じっと少年《こども》の後ろ影を見ながらゆく、その距離は数十歩である、実は三十年の歳月であった。豊吉は昔のわれを目の前にありありと見た。
少年《こども》と犬
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