運命論者
国木田独歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)中過《なかばすぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|根方《ねかた》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+叟」、第4水準2−85−45]形《やさがた》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そわ/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
秋の中過《なかばすぎ》、冬近くなると何《いず》れの海浜《かいひん》を問《とわ》ず、大方は淋《さび》れて来る、鎌倉《かまくら》も其《その》通《とお》りで、自分のように年中住んで居《い》る者の外《ほか》は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網《じびきあみ》の男、或《あるい》は浜づたいに往通《ゆきかよ》う行商《あきんど》を見るばかり、都人士《とじんし》らしい者の姿を見るのは稀《まれ》なのである。
或日《あるひ》自分は何時《いつも》のように滑川《なめりがわ》の辺《ほとり》まで散歩して、さて砂山に登ると、思《おもい》の外、北風が身に沁《しむ》ので直《す》ぐ麓《ふもと》に下《おり》て其処《そこ》ら日あたりの可《よ》い所、身体《からだ》を伸《のば》して楽に書《ほん》の読めそうな所と四辺《あたり》を見廻《みま》わしたが、思うようなところがないので、彼方此方《あちらこちら》と探し歩いた、すると一個所、面白い場所を発見《みつ》けた。
砂山が急に崩《ほ》げて草の根で僅《わずか》にそれを支《ささ》え、其《その》下《した》が崕《がけ》のようになって居《い》る、其|根方《ねかた》に座って両足を投げ出すと、背は後《うしろ》の砂山に靠《もた》れ、右の臂《ひじ》は傍らの小高いところに懸《かか》り、恰度《ちょうど》ソハに倚《よ》ったようで、真《まこと》に心持の佳《よ》い場処《ばしょ》である。
自分は持《もっ》て来た小説を懐《ふところ》から出して心|長閑《のどか》に読んで居ると、日は暖《あたた》かに照り空は高く晴れ此処《ここ》よりは海も見えず、人声も聞えず、汀《なぎさ》に転《ころ》がる波音の穏かに重々しく聞える外《ほか》は四囲《あたり》寂然《ひっそり》として居るので、何時《いつ》しか心を全然《すっかり》書籍《ほん》に取られて了《しま》った。
然《しかる》にふと物音の為《し》たようであるから何心なく頭を上げると、自分から四五間離れた処《ところ》に人が立《たっ》て居たのである。何時此処へ来て、何処《どこ》から現われたのか少《すこし》も気がつかなかったので、恰《あだか》も地の底から湧出《わきで》たかのように思われ、自分は驚いて能《よ》く見ると年輩《とし》は三十ばかり、面長《おもなが》の鼻の高い男、背はすらりとした※[#「月+叟」、第4水準2−85−45]形《やさがた》、衣装《みなり》といい品といい、一見して別荘に来て居る人か、それとも旅宿《やど》を取って滞留して居る紳士と知れた。
彼は其処《そこ》につッ立って自分の方を凝《じっ》と見て居る其《その》眼《め》つきを見て自分は更に驚き且《か》つ怪しんだ。敵《かたき》を見る怒《いかり》の眼か、それにしては力薄し。人を疑う猜忌《さいぎ》の眼か、それにしては光鈍し。たゞ何心なく他を眺《ながむ》る眼にしては甚《はなは》[#「甚」は底本では「其」]だ凄味《すごみ》を帯ぶ。
妙な奴《やつ》だと自分も見返して居ること暫《しば》し、彼は忽《たちま》ち眼を砂の上に転じて、一歩一歩、静かに歩きだした。されども此《この》窪地《くぼち》の外に出ようとは仕《し》ないで、たゞ其処らをブラブラ歩いて居る、そして時々|凄《すご》い眼で自分の方を見る、一たいの様子が尋常でないので、自分は心持が悪くなり、場所を変る積《つもり》で其処を起《た》ち、砂山の上まで来て、後《うしろ》を顧《かえりみ》ると、如何《どう》だろう怪《あやし》の男は早くも自分の座って居た場処に身体《からだ》を投げて居た! そして自分を見送って居る筈《はず》が、そうでなく立《たて》た膝《ひざ》の上に腕組をして突伏《つッぷ》して顔を腕の間に埋《うず》めて居た。
余りの不思議さに自分は様子を見てやる気になって、兎《と》ある小蔭《こかげ》に枯草を敷て這《は》いつくばい、書《ほん》を見ながら、折々頭を挙げて彼《か》の男を覗《うかが》って居《い》た。
彼はやゝ暫《しばら》く顔を上《あげ》なかった。けれども十分とは自分を待《また》さなかった、彼の起《たち》あがるや病人の如《ごと》く、何となく力なげであったが、起《た》ったと思うと其《その》儘《まま》くるり[#「くるり」に傍点]と後向《うしろむき》になって、砂山の崕《がけ》に面と向き、右の手で其|麓《ふもと》を掘りはじめた。
取り出した物は大きな罎《びん》、彼は袂《たもと》からハンケチを出して罎の砂を払い、更に小な洋盃《コップ》様のものを出して、罎の栓《せん》を抜《ぬく》や、一盃《いっぱい》一盃、三四杯続けさまに飲んだが、罎を静かに下に置き、手に杯を持たまゝ、昂然《こうぜん》と頭《こうべ》をあげて大空を眺《なが》めて居た。
そして又《また》一杯飲んだ。そして端《はし》なく眼《まなこ》を自分の方へ転じたと思うと、洋杯《コップ》を手にしたまゝ自分の方へ大股《おおまた》で歩いて来る、其|歩武《ほぶ》の気力ある様は以前の様子と全然《まるで》違うて居た。
自分は驚いて逃げ出そうかと思った。然《しか》し直《す》ぐ思い返して其《その》まゝ横になって居ると、彼は間もなく自分の傍《そば》まで来て、怪《あやし》げな笑味《えみ》を浮べながら
「貴様《あなた》は僕が今何を為《し》たか見て居たでしょう?」
と言った声は少し嗄《しわが》れて居た。
「見て居ました。」と自分は判然《はっきり》答えた。
「貴様は他人《ひと》の秘密を覗《うか》がって可《よ》いと思いますか。」と彼は益《ますます》怪げな笑味《えみ》を深くする。
「可《よ》いとは思いません。」
「それなら何故《なぜ》僕の秘密を覗《うかが》いました。」
「僕は此処《ここ》で書籍《ほん》を読むの自由を持《もっ》て居ます。」
「それは別問題です。」と彼は一寸《ちょっと》眼を自分の書籍《ほん》の上に注いだ。
「別問題ではありません。貴様が何《な》にを為《し》ようと僕が何を為《し》ようと、それが他人《ひと》に害を及ぼさぬ限りはお互の自由です。若《も》し貴様《あなた》に秘密があるなら自《みず》から先《ま》ず秘密に為《し》たら可《よ》いでしょう。」
彼は急にそわ/\して左の手で頭の毛を揉《むし》るように掻《か》きながら、
「そうです、そうです。けれども彼《あ》れが僕の做《な》し得るかぎりの秘密なんです。」と言って暫《しば》らく言葉を途切《とぎら》し、気を塞《つ》めて居たが、
「僕が貴様を責めたのは悪う御座《ござ》いました、けれども何乎《どうか》今御覧になったことを秘密に仕《し》て下さいませんかお願いですが。」
「お頼《たのみ》とあれば秘密にします。別に僕の関したことではありませんから。」
「難有《ありがと》う御座います。それで僕も安心しました。イヤ真《まこと》に失礼しました匆卒《いきなり》貴様を詰《とが》めまして……」と彼は人を圧《おし》つけようとする最初の気勢とは打《うっ》て変り、如何《いか》にも力なげに詫《わび》たのを見て、自分も気の毒になり、
「何もそう謝るには及びません、僕も実は貴様が先刻僕の前に佇立《つった》って僕ばかり見て居《い》た時の風が何《なん》となく怪《あやし》かったから、それで此処《ここ》へ来て貴様《あなた》の為《す》ることを覗《うか》ごうて居たのです。矢張《やはり》貴様を覗がったのです。けれども彼《あ》の事が貴様の秘密とあれば、堅く僕は其《その》秘密を守りますから御安心なさい。」
彼は黙って自分の顔を見て居たが、
「貴様は必定《きっと》守って下さる方です。」と声をふるわし、
「如何《どう》でしょう、一つ僕の杯《さかずき》を受けて下さいませんか。」
「酒ですか、酒なら僕は飲ないほうが可《よ》いのです。」
「飲まないほうが! 飲まないほうが! 無論そうです。もう飲まないで済むことなら僕とても飲まないほうが可いのです。けれども僕は飲《のむ》のです。それが僕の秘密なんです。如何でしょう、僕と貴様と斯《こう》やって話をするのも何かの運命です、怪《あやし》い運命ですから、不思議な縁ですから一つ僕の秘密の杯を受けて下さいませんか、え、如何でしょう、受けて下さいませんか。」という言葉の節々、其《その》声音《こわね》、其眼元、其顔色は実《げ》に大《おおい》なる秘密、痛《いたま》しい秘密を包んで居《い》るように思われた。
「よろしゅう御座います、それでは一つ戴《いただ》きましょう。」と自分の答うるや直《す》ぐ彼は先に立《たっ》て元の場処《ばしょ》へと引返えすので、自分も其|後《あと》に従った。
二
「これは上等のブランデーです。自分で上等も無いもんですが、先日上京した時、銀座の亀屋《かめや》へ行って最上のを呉《く》れろと内証《ないしょう》で三本|買《かっ》て来て此処《ここ》へ匿《かく》して置いたのです、一本は最早《もう》たいらげ[#「たいらげ」に傍点]て空罎《あきびん》は滑川《なめりがわ》に投げ込みました。これが二本目です、未《ま》だ一本この砂の中に埋《うず》めてあります、無くなれば又買って来ます。」
自分は彼の差した杯《さかずき》を受け、少《すこし》ずつ啜《すす》りながら彼の言う処《ところ》を聞《きい》て居たが、聞くに連れて自分は彼を怪しむ念の益々《ますます》高《たかま》るを禁じ得なかった。けれども決して彼の秘密に立入《たちいろ》うとは思なかった。
「それで先刻僕が此処《ここ》へ来て見ると、意外にも貴様《あなた》が既に此《この》場処を占領して居たのです、驚きましたね、怪《け》しからん人もあるものだ僕の酒庫を犯し、僕の酒宴の莚《むしろ》を奪いながら平気で書籍《ほん》を読んで居るなんてと、僕はそれで貴様を見つめながら此処を去らなかったのです。」と彼は微笑して言った、其《その》眼元《めもと》には心の底に潜《ひそ》んで居る彼の優《やさし》い、正直な人柄の光さえ髣髴《ほのめ》いて、自分には更に其《それ》が惨《いたま》しげに見えた、其処《そこ》で自分も笑《わらい》を含み、
「そうでしょう、それでなければあんな眼つきで僕を御覧になる訳は御座いません。さも恨めしそうでした。」
「イヤ恨めしくは御座いません、情なかったのです。オヤ/\乃公《おれ》は隠して置いた酒さえも何時《いつ》か他人《ひと》の尻《しり》の下に敷《しか》れて了《しま》うのか、と自分の運命を詛《のろ》ったのです。詛うと言えば凄《すご》く聞えますが、実は僕にはそんな凄《すご》い了見《りょうけん》も亦《ま》た気力もありません。運命が僕を詛うて居《い》るのです――貴様《あなた》は運命ということを信じますか? え、運命ということ。如何《どう》です、も一《ひとつ》」と彼は罎《びん》を上げたので
「イヤ僕は最早《もう》戴《いただき》ますまい。」と杯《さかずき》を彼に返し「僕は運命論者ではありません。」
彼は手酌《てしゃく》で飲み、酒気を吐いて、
「それでは偶然論者ですか。」
「原因結果の理法を信ずるばかりです。」
「けれども其《その》原因は人間の力より発し、そして其結果が人間の頭上に落ち来るばかりでなく、人間の力以上に原因したる結果を人間が受ける場合が沢山ある。その時、貴様は運命という人間の力以上の者を感じませんか。」
「感じます、けれども其《それ》は自然の力です。そして自然界は原因結果の理法以外には働かないものと僕は信じて居ますから、運命という如《ごと》き神秘らしい名目を其《その》力に加えることは出来ません。」
「そう
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