ですか、そうですか、解《わか》りました。それでは貴様《あなた》は宇宙に神秘なしと言うお考《かんがえ》なのです、要之《つまり》、貴様には此《この》宇宙に寄する此人生の意義が、極く平易|明亮《めいりょう》なので、貴様の頭は二々《ににん》が四《し》で、一切《いっせつ》が間に合うのです。貴様の宇宙は立体でなく平面です。無窮無限という事実も貴様には何等《なんら》、感興と畏懼《いく》と沈思とを喚《よ》び起す当面の大いなる事実ではなく、数の連続を以《もっ》てインフィニテー(無限)を式で示そうとする数学者のお仲間でしょう。」と言って苦しそうな嘆息を洩《もら》し、冷《ひやや》かな、嘲《あざけ》るような語気で、
「けれども、実は其方が幸福なのです。僕の言葉で言えば貴様は運命に祝福されて居る方、貴様の言葉で言えば僕は不幸な結果を身に受けて居る男です。」
「それでは此《これ》で失礼します。」と自分は起上《たちあが》った、すると彼は狼狽《あわて》て自分を引止め、「ま、ま、貴様怒ったのですか。若《も》し僕の言った事がお気に触ったら御勘弁を願います。つい其《そ》の自分で勝手に苦《くるし》んで勝手に色々なことを、馬鹿な訳にも立たん事を考《かん》がえて居《お》るもんですから、つい見境もなく饒舌《しゃべる》のです。否《いいえ》、誰《だれ》にも斯《そ》んなことを言った事はないのです。けれども何んだか貴様《あなた》には言って見とう感じましたから遠慮もなく勝手な熱を吹いたので、貴様には笑われるかも知れませんが。僕にはやはり怪《あや》しの運命が僕と貴様を引着《ひきつけ》たように感ぜられるのです。不幸《ふしあわ》せな男と思って、もすこしお話し下さいませんか、もすこし……」
「けれども別にお話しするようなことも僕には有りませんが……」
「そう言わないで何卒《どうか》もすこし此処《ここ》に居《い》て下さいな、もすこし……。噫《ああ》! 如何《どう》して斯《こ》う僕は無理ばかり言うのでしょう! 酔《よっ》たのでしょうか。運命です、運命です、可《よ》う御座います、貴様にお話がないなら僕が話します。僕が話すから聞いて下さい、せめて聴《きい》て下さい、僕の不幸《ふしあわせ》な運命を!」
 此《この》苦痛の叫《さけび》を聞いて何人《なんびと》か心を動かさざらん。自分は其《その》儘《まま》止《とどま》って、
「聞きましょうとも。僕が聴《き》いてお差支《さしつか》えがなければ何事でも承《うけ》たまわりましょう。」
「聴いて下さいますか。それならお話しましょう。けれども僕の運命の怪しき力に惑《まど》うて居る者ですから、其|積《つもり》で聴いて下さい。若《も》し原因結果の理法と貴様《あなた》が言うならそれでも可《よ》う御座います。たゞ其原因結果の発展が余りに人意の外《そと》に出て居て、其|為《ため》に一人《ひとり》の若い男が無限の苦悩に沈んで居る事実を貴様が知りましたなら、それを僕が怪しき運命の力と思うのも無理の無いことだけは承知下さるだろうと思います、で貴様に聞きますが此処《ここ》に一人の男があって、其男が何心なく途《みち》を歩いて居ると、何処《どこ》からとも知れず一《ひとつ》の石が飛んで来て其男の頭に命中《あた》り、即死する、そのために其男の妻子は餓《うえ》に沈み、其為めに母と子は争い、其為に親子は血を流す程の惨劇を演ずるという事実が、此世に有り得ることと貴様《あなた》は信ずるでしょうか。」
「実際有ることか無いことかは知りませんが、有り得ることとは信じます、それは。」
「そうでしょう、それなら貴様は人の意表に出た原因のために、ふとした原因のために、非常なる悲惨がやゝもすれば、人の頭上に落ちてくるという事実を認《した》たむるのです、僕の身の上の如《ごと》き、全《まっ》たく其《それ》なので、殆《ほと》んど信ず可《べ》からざる怪《あや》しい運命が僕を弄《もてあ》そんで居《い》るのです。僕は運命と言います。僕にはそう外《ほか》には信じられんですから。」と言って彼は吻《ほっ》と嘆息《ためいき》を吐《つ》き、
「けれども貴様|聴《き》いて呉《く》れますか。」
「聴《き》きますとも! 何卒《どう》かお話なさい。」
「それなら先《ま》ず手近な酒のことから話しましょう。貴様は定めし不思議なことと思って居るでしょうが、実は世間に有りふれたことで、苦悩《くるしみ》を忘れたさの魔酔剤に用いて居《お》るのです。砂の中に隠して置くのは隠くして飲まなければならない宅の事情があるからなので、その上、此《この》場所は如何《いか》にも静で且《か》つ快濶《かいかつ》で、如何《いか》な毒々しい運命の魔も身を隠して人を覗《うか》がう暗い蔭《かげ》のないのが僕の気に入ったからです。此処《ここ》へ身を横たえて酒精《アルコール》の力に身を托《たく》し高い大空を仰いで居る間は、僕の心が幾何《いくら》か自由を得る時です。その中《うち》には此激烈な酒精《アルコール》が左《さ》なきだに弱り果《はて》た僕の心臓を次第に破って、遂《つい》には首尾よく僕も自滅するだろうと思って居ます。」
「そんなら貴様《あなた》は、自殺を願うて居るのですか。」と自分は驚いて問うた。
「自殺じゃアない、自滅です。運命は僕の自殺すら許さないのです。貴様、運命の鬼が最も巧《たくみ》に使う道具の一は『惑《まどい》』ですよ。『惑』は悲《かなしみ》を苦《くるしみ》に変ます。苦悩《くるしみ》を更に自乗させます。自殺は決心です。始終|惑《まどい》のために苦んで居る者に、如何《どう》して此決心が起りましょう。だから『惑』という鈍い、重々しい苦悩《くるしみ》から脱れるには矢張《やはり》、自滅という遅鈍《ちどん》な方法しか策がないのです。」
と沁々《しみじみ》言う彼の顔には明《あきらか》に絶望の影が動いて居《い》た。
「如何《どう》いう理由《わけ》があるのか知りませんが、僕は他人の自殺を知って之《これ》を傍観する訳には行きません。自滅というも自殺に違いないのですから。」と自分が言うや、
「けれども自殺は人々の自由でしょう。」と彼は笑味《えみ》を含んで言った。
「そうかも知れません。然《しか》し之を止め得るならば、止めるのが又人々の自由なり義務です。」
「可《よ》う御座います。僕も決して自滅したくは有りません若《も》し貴様《あなた》が僕の物話《はなし》を悉皆《すっかり》聴《きい》て、其《その》上《うえ》で僕を救うの策を立てて下さるのなら僕は此《この》上《うえ》もない幸福です。」
 斯《こ》う聞いては自分も黙って居られない、
「可《よろ》しい! 何卒《どう》か悉皆《すっかり》聴かして貰《もら》いましょう。今度は僕の方からお願します。」

      三

「僕は高橋信造《たかはししんぞう》という姓名ですが、高橋の姓は養家のを冒《おか》したので、僕の元の姓[#「姓」は底本では「性」]は大塚《おおつか》というです。
 大塚信造と言った時のことから話しますが、父は大塚|剛蔵《ごうぞう》と言って御存知でも御座《ござ》いますか、東京控訴院の判事としては一寸《ちょっと》世間でも名の知れた男で、剛蔵の名の示す如《ごと》く、剛直|一端《いっぺん》の人物。随分僕を教育する上には苦心したようでした。けれども如何《どう》いうものか僕は小児《こども》の時分から学問が嫌《きら》いで、たゞ物陰《ものかげ》に一人《ひとり》引込んで、何を考《かん》がえるともなく茫然《ぼんやり》して居ることが何より好《すき》でした。十二歳の時分と覚えて居ます、頃《ころ》は春の末《すえ》ということは庭の桜が殆《ほとん》ど散り尽して、色褪《いろあ》せた花弁《はなびら》の未《ま》だ梢《こずえ》に残って居《い》たのが、若葉の際《ひま》からホロ/\と一片《ひとひら》三片《みひら》落つる様《さま》を今も判然《はっきり》と想《おも》いだすことが出来るので知れます。僕は土蔵《くら》の石段に腰かけて例《いつも》の如《ごと》く茫然《ぼんやり》と庭の面《おもて》を眺《なが》めて居ますと、夕日が斜に庭の木《こ》の間《ま》に射《さ》し込《こん》で、さなきだに静かな庭が、一増《ひとしお》粛然《ひっそり》して、凝然《じっ》として、眺《なが》めて居ると少年心《こどもごころ》にも哀《かなし》いような楽《たのし》いような、所謂《いわゆ》る春愁《しゅんしゅう》でしょう、そんな心持《こころもち》になりました。
 人の心の不思議を知って居るものは、童児《こども》の胸にも春の静《しずか》な夕《ゆうべ》を感ずることの、実際有り得ることを否《いな》まぬだろうと思います。
 兎《と》も角《かく》も僕はそういう少年でした。父の剛蔵[#「剛蔵」は底本では「剛造」]はこのことを大変苦にして、僕のことを坊頭臭《ぼうずくさ》い子だと数々《しばしば》小言《こごと》を言い、僧侶《ぼうず》なら寺へ与《やっ》て了《しま》うなど怒鳴ったこともあります。それに引かえ僕の弟《おとと》の秀輔《ひですけ》は腕白小僧で、僕より二ツ年齢《とし》が下でしたが骨格も父に肖《に》て逞《たく》ましく、気象もまるで僕とは変《ちが》って居たのです。
 父が僕を叱《しか》る時、母と弟《おとと》とは何時《いつ》も笑って傍《はた》で見て居たものです。母というはお豊《とよ》といい、言葉の少ない、柔和らしく見えて確固《しっかり》した気象の女でしたが、僕を叱《しか》ったこともなく、さりとて甘やかす程に可愛《かわい》がりもせず、言わば寄らず触らずにして居たようです。
 それで僕の気象が性来今言ったようなのであるか、或《あるい》はそうでなく、僕は小児《こども》の時、早く不自然な境に置《おか》れて、我知らずの孤独な生活を送った故《ゆえ》かも知れないのです。
 成程父は僕のことを苦にしました。けれども其《その》心配はたゞ普通の親が其子の上を憂《うれう》るのとは異《ちが》って居たのです、それで父が『折角男に生れたのなら男らしくなれ、女のような男は育て甲斐《がい》がない』と愚痴めいた小言を言う、其言葉の中にも僕の怪しい運命の穂先が見えて居たのですが、少年《こども》の僕には未《ま》だ気が着きませんでした。
 言うことを忘れて居ましたが、其頃は父が岡山地方裁判所長の役で、大塚の一家《いっけ》は岡山の市中に住んで居《い》たので、一家が東京に移ったのは未だ余程後のことです。
 或日《あるひ》のことでした、僕が平時《いつも》のように庭へ出て松の根に腰をかけ茫然《ぼんやり》して居ると、何時《いつ》の間にか父が傍《そば》に来て、
『お前は何を考がえて居るのだ。持《もっ》て生れた気象なら致方《しかた》もないが、乃父《おれ》はお前のような気象は大嫌《だいきらい》だ、最少《もすこ》し確固《しっかり》しろ。』と真面目《まじめ》の顔で言いますから、僕は顔も上げ得ないで黙って居ました。すると父は僕の傍に腰を下して、
『オイ信造』と言って急に声を潜《ひそ》め『お前は誰《だれ》かに何か聞《きき》は為《し》なかったか。』
 僕には何のことか全然《すっかり》解《わか》らないから、驚いて父の顔を仰ぎましたが、不思議にも我知らず涙含《なみだぐ》みました。それを見て父の顔色は俄《にわか》に変り、益々《ますます》声を潜《ひそ》めて、
『慝《かく》すには及ばんぞ、聞《きい》たら聞いたと言うが可《え》え。そんなら乃父《おれ》には考案《かんがえ》があるから。サア慝くさずに言うが可え。何か聞いたろう?』
 此《この》時《とき》の父の様子は余程|狼狽《ろうばい》して居るようでした。それで声さえ平時《いつも》と変り、僕は可怕《こわ》くなりましたから、しく/\泣き出すと、父は益々《ますます》狼狽《うろた》え、
『サア言え! 聞いたら聞《きい》たと言え! 慝《かく》すかお前は』と僕の顔を睨《にら》みつけましたから、僕も益々|可怕《こわく》なり、
『御免なさい、御免なさい』とたゞ謝罪《あやま》りました。
『謝罪れと言うんじゃない。若《も》し何かお前が妙なことを聞《きい》て、それで茫然《ぼんやり》
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング