する上には苦心したようでした。けれども如何《どう》いうものか僕は小児《こども》の時分から学問が嫌《きら》いで、たゞ物陰《ものかげ》に一人《ひとり》引込んで、何を考《かん》がえるともなく茫然《ぼんやり》して居ることが何より好《すき》でした。十二歳の時分と覚えて居ます、頃《ころ》は春の末《すえ》ということは庭の桜が殆《ほとん》ど散り尽して、色褪《いろあ》せた花弁《はなびら》の未《ま》だ梢《こずえ》に残って居《い》たのが、若葉の際《ひま》からホロ/\と一片《ひとひら》三片《みひら》落つる様《さま》を今も判然《はっきり》と想《おも》いだすことが出来るので知れます。僕は土蔵《くら》の石段に腰かけて例《いつも》の如《ごと》く茫然《ぼんやり》と庭の面《おもて》を眺《なが》めて居ますと、夕日が斜に庭の木《こ》の間《ま》に射《さ》し込《こん》で、さなきだに静かな庭が、一増《ひとしお》粛然《ひっそり》して、凝然《じっ》として、眺《なが》めて居ると少年心《こどもごころ》にも哀《かなし》いような楽《たのし》いような、所謂《いわゆ》る春愁《しゅんしゅう》でしょう、そんな心持《こころもち》になりました。
人の心の不思議を知って居るものは、童児《こども》の胸にも春の静《しずか》な夕《ゆうべ》を感ずることの、実際有り得ることを否《いな》まぬだろうと思います。
兎《と》も角《かく》も僕はそういう少年でした。父の剛蔵[#「剛蔵」は底本では「剛造」]はこのことを大変苦にして、僕のことを坊頭臭《ぼうずくさ》い子だと数々《しばしば》小言《こごと》を言い、僧侶《ぼうず》なら寺へ与《やっ》て了《しま》うなど怒鳴ったこともあります。それに引かえ僕の弟《おとと》の秀輔《ひですけ》は腕白小僧で、僕より二ツ年齢《とし》が下でしたが骨格も父に肖《に》て逞《たく》ましく、気象もまるで僕とは変《ちが》って居たのです。
父が僕を叱《しか》る時、母と弟《おとと》とは何時《いつ》も笑って傍《はた》で見て居たものです。母というはお豊《とよ》といい、言葉の少ない、柔和らしく見えて確固《しっかり》した気象の女でしたが、僕を叱《しか》ったこともなく、さりとて甘やかす程に可愛《かわい》がりもせず、言わば寄らず触らずにして居たようです。
それで僕の気象が性来今言ったようなのであるか、或《あるい》はそうでなく、僕は小児《こども》の時、早く不自然な境に置《おか》れて、我知らずの孤独な生活を送った故《ゆえ》かも知れないのです。
成程父は僕のことを苦にしました。けれども其《その》心配はたゞ普通の親が其子の上を憂《うれう》るのとは異《ちが》って居たのです、それで父が『折角男に生れたのなら男らしくなれ、女のような男は育て甲斐《がい》がない』と愚痴めいた小言を言う、其言葉の中にも僕の怪しい運命の穂先が見えて居たのですが、少年《こども》の僕には未《ま》だ気が着きませんでした。
言うことを忘れて居ましたが、其頃は父が岡山地方裁判所長の役で、大塚の一家《いっけ》は岡山の市中に住んで居《い》たので、一家が東京に移ったのは未だ余程後のことです。
或日《あるひ》のことでした、僕が平時《いつも》のように庭へ出て松の根に腰をかけ茫然《ぼんやり》して居ると、何時《いつ》の間にか父が傍《そば》に来て、
『お前は何を考がえて居るのだ。持《もっ》て生れた気象なら致方《しかた》もないが、乃父《おれ》はお前のような気象は大嫌《だいきらい》だ、最少《もすこ》し確固《しっかり》しろ。』と真面目《まじめ》の顔で言いますから、僕は顔も上げ得ないで黙って居ました。すると父は僕の傍に腰を下して、
『オイ信造』と言って急に声を潜《ひそ》め『お前は誰《だれ》かに何か聞《きき》は為《し》なかったか。』
僕には何のことか全然《すっかり》解《わか》らないから、驚いて父の顔を仰ぎましたが、不思議にも我知らず涙含《なみだぐ》みました。それを見て父の顔色は俄《にわか》に変り、益々《ますます》声を潜《ひそ》めて、
『慝《かく》すには及ばんぞ、聞《きい》たら聞いたと言うが可《え》え。そんなら乃父《おれ》には考案《かんがえ》があるから。サア慝くさずに言うが可え。何か聞いたろう?』
此《この》時《とき》の父の様子は余程|狼狽《ろうばい》して居るようでした。それで声さえ平時《いつも》と変り、僕は可怕《こわ》くなりましたから、しく/\泣き出すと、父は益々《ますます》狼狽《うろた》え、
『サア言え! 聞いたら聞《きい》たと言え! 慝《かく》すかお前は』と僕の顔を睨《にら》みつけましたから、僕も益々|可怕《こわく》なり、
『御免なさい、御免なさい』とたゞ謝罪《あやま》りました。
『謝罪れと言うんじゃない。若《も》し何かお前が妙なことを聞《きい》て、それで茫然《ぼんやり》
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