考がえて居るじゃないかと思うから、それで訊《き》くのだ。何《なん》にも聞かんのなら其《それ》で可《え》え。サア正直に言え!』と今度は真実《ほんと》に怒って言いますから、僕は何《なん》のことか解《わか》らず、たゞ非常な悪いことでも仕《し》たのかと、おろ/\声で、
『御免なさい、御免なさい。』
『馬鹿! 大馬鹿者! 誰《たれ》が謝罪れと言った。十二にもなって男の癖に直《す》ぐ泣く。』
怒鳴られたので僕は喫驚《びっくり》して泣きながら父の顔を見て居《い》ると、父も暫《しばら》くは黙って熟《じっ》と僕の顔を見て居ましたが、急に涙含《なみだぐ》んで、
『泣《なか》んでも可《え》え、最早《もう》乃父《おれ》も問わんから、サア奥へ帰るが可《え》え、』と優《やさ》しく言った其《その》言葉は少ないが、慈愛に満《みち》て居たのです。
其後でした、父が僕のことを余り言わなくなったのは。けれども又其後でした僕の心の底に一片の雲影の沈んだのは。運命の怪しき鬼が其|爪《つめ》を僕の心に打込んだのは実に此《この》時《とき》です。
僕は父の言葉が気になって堪《たま》りませんでした。これも普通の小供《こども》なら間《ま》もなく忘れて了《しま》っただろうと思いますが、僕は忘れる処《どころ》か、間《ま》がな隙《すき》がな、何故《なぜ》父は彼《あ》のような事を問うたのか、父が斯《か》くまでに狼狽《ろうばい》した処《ところ》を見ると、余程の大事であろうと、少年心《こどもごころ》に色々と考えて、そして其大事は僕の身の上に関することだと信ずるようになりました。
何故《なぜ》でしょう。僕は今でも不思議に思って居るのです。何故父の問うたことが僕の身の上のことと自分で信ずるに至ったでしょう。
暗黒《くらき》に住みなれたものは、能《よ》く暗黒《くらき》に物を見ると同じ事で、不自然なる境に置《おか》れたる少年は何時《いつ》しか其《その》暗き不自然の底に蔭《ひそ》んで居る黒点を認めることが出来たのだろうと思います。
けれども僕の其黒点の真相を捉《とら》え得たのはずっと後のことです。僕は気にかかりながらも、これを父に問い返すことは出来ず、又母には猶更《なおさ》ら出来ず、小《ちいさ》な心を痛めながらも月日を送って居ました。そして十五の歳《とし》に中学校の寄宿舎に入れられましたが、其前に一ツお話して置く事があるのです。
大塚の隣屋敷に広い桑畑《くわばたけ》があって其横に板葺《そぎぶき》の小《ちいさ》な家がある、それに老人《としより》夫婦と其ころ十六七になる娘が住《すん》で居ました。以前は立派な士族で、桑園《くわばたけ》は則《すなわ》ち其屋敷跡だそうです。此《この》老人《としより》が僕の仲善《なかよし》でしたが、或日《あるひ》僕に囲碁の遊戯《あそび》を教えて呉《く》れました。二三日|経《たっ》て夜食の時、このことを父母に話しました処《ところ》、何時《いつ》も遊戯《あそび》のことは余り気にしない父が眼《め》に角《かど》を立《たて》て叱《しか》り、母すら驚いた眼を張って僕の顔を見つめました。そして父母が顔を見合わした時の様子の尋常でなかったので、僕は甚《はなは》だ妙に感じました。
何故《なぜ》僕が囲碁を敵としなければならぬか、それも後に解《わか》りましたが、其《それ》が解った時こそ、僕が全く運命の鬼に圧倒せられ、僕が今の苦悩を甞《な》め尽す初《はじめ》で御座いました。
四
僕の十六の時、父は東京に転任したので大塚|一家《いっけ》は父と共に移転しましたが、僕だけは岡山中学校の寄宿舎に残されました。
僕は其《その》後《ご》三年間の生活を思うと、僕の此《この》世《よ》に於《お》ける真《まこと》の生活は唯《た》だ彼《あ》の学校時代だけであったのを知ります。
学生は皆な僕に親切でした。僕は心の自由を恢復《かいふく》し、悪運の手より脱《のが》れ、身の上の疑惑を懐《いだ》くこと次第に薄くなり、沈欝《ちんうつ》の気象までが何時《いつ》しか雪の融《と》ける如《ごと》く消えて、快濶《かいかつ》な青年の気を帯びて来ました。
然《しか》るに十八の秋、突然東京の父から手紙が来て僕に上京を命じたのです。穏《おだやか》な僕の心は急に擾乱《かきみだ》され、僕は殆《ほと》んど父の真意を知るに苦しみ、返書を出して責めて今一年、卒業の日まで此《この》儘《まま》に仕て置いて貰《もら》おうかと思いましたが、思い返して直ぐ上京しました。麹町《こうじまち》の宅に着くや、父は一室《ひとま》に僕を喚《よ》んで、『早速《さっそく》だがお前と能《よ》く相談したいことが有るのだ。お前これから法律を学ぶ気はないかね。』
思いもかけぬ言葉です。僕は驚いて父の顔を見つめたきり容易に口を開くことが出来ない。
『実は手
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