もなかったので僕に続いて部屋に入ったのです。僕は母の前に座るや、
『貴女《あなた》は私を離婚すると里子に言ったそうですが、其《その》理由《わけ》を聞きましょう。離婚するなら仕ても私は平気です。或《あるい》は寧《むし》ろ私の望む処《ところ》で御座います。けれども理由《わけ》を被仰《おっしゃ》い、是非|其《そ》の理由を聞きましょう。』と酔《よい》に任《まか》せて詰寄《つめよ》りました。すると母は僕の剣幕の余り鋭いので喫驚《びっくり》して僕の顔を見て居《い》るばかり、一言も発しません。
『サア理由《わけ》を聞きましょう。怨霊《おんりょう》が私に乗移って居るから気味が悪いというのでしょう。それは気味が悪いでしょうよ。私は怨霊の児《こ》ですもの。』と言い放《はな》ちました、見る/\母の顔色は変り、物をも言わず部屋《へや》の外へ駈《か》け出て了《しま》いました。
 僕は其まゝ母の居間に寝て了ったのです。眼《め》が覚《さ》めるや酒の酔も醒《さ》め、頭の上には里子が心配そうに僕の顔を見て坐《すわっ》て居ました。母は直《す》ぐ鎌倉に引返したのでした。
 其《その》後《ご》僕と母とは会わないのです。僕は母に交《かわ》って此方《こちら》に来て、母は今、横浜の宅に居ますが、里子は両方を交《かわ》る/″\介抱して、二人《ふたり》の不幸をば一人《ひとり》で正直に解釈し、たゞ/\怨霊《おんりょう》の業《わざ》とのみ信じて、二人の胸の中《うち》の真《まこと》の苦悩《くるしみ》を全然《まるきり》知らないのです。
 僕は酒を飲むことを里子からも医師からも禁じられて居ます。けれども如何《どう》でしょう。此《こ》のような目に遇《あ》って居る僕がブランデイの隠飲《かくしの》みをやるのは、果《はたし》て無理でしょうか。
 今や僕の力は全く悪運の鬼に挫《ひし》がれて了いました。自殺の力もなく、自滅を待つほどの意久地《いくじ》のないものと成り果《はて》て居るのです。
 如何《どう》でしょう、以上ザッと話しました僕の今日までの生涯の経過を考がえて見て、僕の心持になって貰《もら》いたいものです。これが唯《た》だ源因結果の理法に過《すぎ》ないと数学の式に対するような冷かな心持で居《い》られるものでしょうか。生《うみ》の母は父の仇《あだ》です、最愛の妻は兄妹《きょうだい》です。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。
前へ 次へ
全24ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング