》せ下りけり。
今は海暮れ浜も暮れぬ。冬の淋しき夜となりぬ。この淋しき逗子の浜に、主《あるじ》なき火はさびしく燃えつ。
たちまち見る、水ぎわをたどりて、火の方《かた》へと近づきくる黒き影あり。こは年老いたる旅人なり。彼は今しも御最後川を渡りて浜に出《い》で、浜づたいに小坪街道へと志《こころざ》しぬるなり。火を目がけて小走りに歩むその足音重し。
嗄《しわが》れし声にて、よき火やとかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包を下ろし、両《りょう》の手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、その膝《ひざ》はわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤くその顔を照らしぬ。皺《しわ》の深さよ。眼《まなこ》いたく凹《くぼ》み、その光は濁りて鈍《にぶ》し。
頭髪も髯《ひげ》も胡麻白《ごまじろ》にて塵《ちり》にまみれ、鼻の先のみ赤く、頬《ほお》は土色せり。哀れいずくの誰ぞや、指《さ》してゆくさきはいずくぞ、行衛《ゆくえ》定めぬ旅なるかも。
げに寒き夜かな。独《ひと》りごちし時、総身《そうしん》を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩《す》りたり。いたく古び
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