てところどころ古綿《ふるわた》の現われし衣の、火に近き裾《すそ》のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑《うるお》いて、なお乾《ほ》すことだに得ざりしなるべし。
あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆《きゃはん》も足袋《たび》も、紺の色あせ、のみならず血色《ちいろ》なき小指現われぬ。一声《いっせい》高く竹の裂《わ》るる音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁《おきな》は足を引かざりき。
げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替《か》えつ。十とせの昔、楽しき炉《いろり》見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇《あ》わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目《ま》なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔の炉《いろり》の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
昔の火は楽しく、今の火は悲し、あらず、あらず、昔は昔、今は今、心地よきこの火や。いう声は震いぬ。荒ら荒らしく杖を投げやりつ。火を背になし、沖の方《かた》を前にして立ち体《たい》をそらせ、両
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング