のいさかいの絶えぬを悲しく思いて」とばかりにて跡は言わず。「父母の名を言うことは許して」というに、予も詞も添え、「こおんなの願いの如くこのままに心まかせに親許へ送りかえされたし」と願い、娘にも「心得違いをなさるなよ」と一言を残して警察署を立ち出でしが、またいろいろの考え胸に浮かび何となく楽しからざれば活版所へはかえらず、再び橋の上をぶらつきたり。今度は巡行の巡査も疑わず、かえって今の功を賞してか目礼して過るようなれば心安く、行人まったく絶えて橋上に我あり天空に月あるのみ。満たる潮に、川幅常より広く涼しきといわんより冷しというほどなり。さながら人間の皮肉を脱し羽化《うか》して広寒宮裏《こうかんきゅうり》に遊ぶ如く、蓬莱《ほうらい》三山ほかに尋ぬるを用いず、恍然《こうぜん》自失して物と我とを忘れしが、人間かかる清福あるに世をはかなみて自ら身を棄《すて》んとするかの小女こそいたわしけれとまたその事に思い到りて、この清浄の境に身を置きながら種々の妄想を起して再び月の薄雲に掩《おお》われたるも知らざりし。予がかくたたずみて居たるは橋を半ば渡りこして本所に寄りたる方にて、これ川を広く見んがためなり
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