らえ》てここに居りたまえ」と頼もしく言われたり。この家は裏家なれど清く住なし何業とはなけれど豊げなり。後に聞けばその辺三四ヶ所の地所家作の差配《さはい》をなす者なりとぞ。予がこの家に宿して八日目の事なりき。桜時なり、三社の祭りなり、賑い言わん方なしといえば、携え来りし着替を出し、独り夕方より観音へ参詣し、夜に入り蕎麦店へ入りて京味を試み、ゆらりゆらりと立帰りしところ、裏のうち騒がしく「さても胆太き者どもかな」と口々に言う。何事かと聞けば隣長屋に明店《あきだな》ありしに突然|暮方《くれがた》二人の男来りてその家の建具類を持ち去る、大方《おおかた》家作主の雇いしものならんと人も疑わざりしを、深沢が見咎めて糺《ただ》せば詞《ことば》窮して担いかけし障子|襖《ふすま》を其所《そこ》へ捨て逃げ去りしなりというに、東京という所の凄《すさま》じさ、白昼といい人家稠密といい、人々見合う中にて人の物を掠め去らんとする者あり。肌へ着けたりとて油断ならずと懐中へ手を差し入れて彼の胴巻を探るに、悲しやある事なし。気絶して其所《そこ》に倒れんとするほどになり、二階に駆け上りて裸になりて改めれどなし。泣く悲しむという事は次になり、ただ茫然たるばかり、面目なきながら深沢に話せば、これも仰天し、「実は伯父ご様の御文中にも若干の学資を持たせ遣したりとあれば、それを此方《こちら》へ御預かり申さんとは存ぜしが、金銭の事ゆえ思召す所を憚《はば》かりて黙止たりしが残念の事を仕《つかまつ》りたり」と言うに、いよいよ面目なくますます心は愚にかえりて我身も頼もしからず。今さら学資をスリ取られたとは在所へ言いもやられず、この上は塾僕学僕になりてもと奮発せしかど、さる口もなく空しくこの家に厄介となり、鼻紙の事まで深沢の世話になるようになれば、深沢は頓着せぬ様子なれど女房は胸に持ちて居ずもがなの気色見えたり。余も心退けて安からねば「いかなる所にても自活の道を求めたし」と言えば、深沢も「折角我等を人がましく思いたまいて伯父ごより御添書ありしに学校へも入れ申さぬは不本意なれど、御覧の如くの体《てい》なれば何事も心に任せず、ここに新たに設けし活版所あり、しばらくこの職工となりたまいてはいかに、他の業ならねば少しは面白くも候わん」と勧むるに、この事は他の業よりは望む所に近ければただちに承知して活版職人となりぬ。
浅草諏訪町の
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
饗庭 篁村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング