五十四卷にも、晉成帝道士王符僞撰『老子化胡經』と掲げてある。『高僧傳』卷一にも王浮の事を載せてあるが、之によると王浮の相手の帛遠(即ち白法祖で、遠は名にして、法祖は字である)は、西晉の惠帝の時に張輔といふものに殺されて居る。所が『資治通鑑』を檢べると、張輔自身は永興二年(西暦三〇五)に戰死して居るから、王浮の『化胡經』を僞作したのが、その以前でなくては協はぬ。『化胡經』僞作の年代はかく相違して居るが、『高僧傳』の方が信憑すべく、從つて『化胡經』は西暦三百年前後に僞作されたものと認定すべきである。
王浮の作つた『老子化胡經』は、もと一卷であつたが(唐の道宣の『大唐内典録』等には二卷とす)、後にその徒が増附して都合十卷(『佛祖統記』には十一卷とす)とした。『佛祖統記』によると、その第一卷には化※[#「よこめ/厂+(炎+りっとう)」、第4水準2−84−80]賓胡王とて、迦濕彌羅《カシミラ》國王を教化せしこと、第二卷には倶薩羅國降[#二]伏外道[#一]とて、中天竺の※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]薩羅《コサラ》國にて外道を説伏せしこと、第三卷には化[#二]維衞胡王[#一]とて、釋迦の生國の迦毘羅《カピラ》國を教化せしことを記載してある。維衞は又迦維衞とも書き、即ち法顯の迦維羅衞國、玄奘の劫比羅伐※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵《カピラバアスト》國である。この『化胡經』の記事は、佛經の文句を剽竊して作つたものといふことである。もと一卷の『化胡經』が十卷に増加したのみならず、『化胡經』の内容も隨分變化して居る。最初は老子自からが釋迦を教へたといひ、後には老子が釋迦と生れ變つたといひ、又その弟子の尹喜を釋迦と生れ變らしたなど、説は區々になつて居る。
四
『老子化胡經』が公にされてから、道佛二教の爭は實に火の手を擧げた。道士は之にて敵の死命を制すべき屈竟の武器を得たりとて、頻に『化胡經』を振り廻はす。釋迦は老子の弟子である。弟子は固より先生に劣る。老子は中國人の爲に道教を説いた。佛教は胡人の爲に立てた法である。中國人にして佛教を奉ずるのは、いはゆる蠻夷擾[#レ]夏ものなりとて、盛に國粹主義を鼓吹する。道士顧歡の『夷夏論』に、
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佛道齊[#二]乎達化[#一]、而有[#二]夷夏之別[#一]。以[#二]中夏之性
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