那〕里に當つて居る。何れにしても老子は東周の都から西方に出掛けたので、『正義』によつて散關を出たとすると、或は遠く西域地方へ出掛けたものと想像すべき餘地もあるやうで、殊に莫[#レ]知[#二]其所[#一][#レ]終の一句は、遠く往つて再び支那に歸らぬやうに聞えて、老子の西域行に附會するに誠に都合が好い。それで西漢の末頃から、老子は遠く流沙の西に出掛けたといふ傳説があつた。漢の劉向の作といふ『列仙傳』に、その事を載せてあつたといふが、本書が今日に傳らぬから、眞僞如何は斷言が出來ぬ。
(第三) 『後漢書』卷六十下の襄楷傳によると、襄楷は當時の天子の桓帝に上書して時事を論じたが、その書中に、
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或言老子入[#二]夷狄[#一]爲[#二]浮屠[#一]。
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とあるから、東漢の末に已に化胡の説の行はれたことが明かである。桓帝の時は佛教漸く流通し、殊に桓帝は老佛に歸依して、宮中に二者を併せ祀つた故に、當時老子に左袒する人は、かかる説を唱へて、暗に佛教を抑へたものと見える。また曹魏の魚豢の『魏略』(『三國志』の魏志の東夷傳の註に引く所による)には、
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浮屠所[#レ]載與[#二]中國老子經[#一]相出入。蓋以爲老子西出[#レ]關。過[#二]西域[#一]。之[#二]天竺[#一]。教[#二]胡浮屠[#一]。
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と記して、老子化胡の説を尤も分明に表示して居る。化胡説の流行と共に、佛道二教の爭の漸く激烈を加へたことは申す迄もない。『老子化胡經』の僞作者王浮は、是等の説を繼承し、又利用したのである。老子の學説は佛説と似て居る所があり、老子は晩年に中國を後に西方に往つたといふ傳説もあり、殊に老子が天竺に往つて佛教を唱へたといふ説も行はれて居ること故、之を大成して『老子化胡經』を作つたのである。

         三

 晉の王浮が『老子化胡經』を僞作したといふことは、フランスの Chavannes 氏がさきに一九〇五年の『通報』に譯載した『魏略』の本文に加へた注釋中に、唐初の文獻を引いて相當紹介に努めて居る。之によると道士の王浮は沙門の白法祖と議論して、負けた口惜しさに『老子化胡經』を作つて勝を求めたといふ。南宋の志盤の『佛祖統記』第三十六卷には、之を東晉の成帝の咸康六年(西暦三四〇)に繋けて居る。同書の第
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