の兩教は衝突した。支那の佛教にとつて、道教は第一の法敵であつた。佛家で三武の厄と稱する、佛教に尤も激しき迫害を加へた帝王は、何れも道教信者である。即ち第一に北魏の太武帝は道士寇謙之を信用して佛教に迫害を加へた。北周の武帝も佛教を迫害したが、これは道士の張賓や衞元嵩に聽いた結果である。唐の武宗も道士の趙歸眞を信じて、寺院を破壞し僧侶を還俗せしめた。『佛道論衡』とか『弘明集』『廣弘明集』などを見ると、南北朝・隋・唐時代に於ける道佛二教の衝突の有樣はよく判然するが、この間に在つて何時も爭論の中心となり、尤も舞臺を賑はしたのは『老子化胡經』即ち略稱の『化胡經』である。『老子化胡經』の來歴は、やがて道佛二教の衝突小史である。
二
『老子化胡經』とは、老子が西域印度へ出掛けて、幾多の胡國を教化したことを書いたもので、西晉の惠帝の頃に、道士の王浮(或は王符に作る)といふ者の僞作に係る。王浮がこの書を僞作するに至つたには相應の由來がある。
(第一) 一體老子の學説は頗る印度的色彩を帶びて居る。老子の學説を波羅門哲學と對比すると、兩者の間に尠からざる類似がある。故に歐洲の學者は多く老子は印度の影響を受けたものと信じて居る。甚しきは老子その人も印度より支那に移住して來たものとさへ信じて居る。有名なフランスの支那學者 Pauthier などは、六七十年から以前に已にこの説を唱へて居り、支那と西方との古代の文化の關係を研究の目的として居つた Lacouperie は、尤も熱心に老子の印度人たるべきを主張して居る。現代の支那學者では、ドイツの Hirth 氏なども餘程この説に傾いて居る。兎も角も老子は印度臭い、彼の學説には幾分佛教の教理とも相通ずべき點の存するといふことが、『老子化胡經』の作者の附け目である。
(第二) 老子はもと周に仕へたが、世の衰ふるを見て官を捨て、西方に出掛けたといふ傳説がある。『史記』の老莊申韓傳を見ると、老子はその晩年に關を出でて莫[#レ]知[#二]其所[#一][#レ]終と載せてある。單に關とあつては不明なれど、『史記正義』には散關と註す。散關は長安の古都より四百〔支那〕里餘西に當つて、今の陝西省鳳翔府寶※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]縣に在る。或は函谷關といふ説もある。函谷關は今の河南省河南府靈寶縣に在つて、洛陽の古都より西四百〔支
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