時代、筆受の人名を明示せよと、意外の問に一人の道士も應答し得るものなく、かくて佛者は勝利と宣せられ、一切の『老子化胡經』は燒棄を命ぜられた。
 併しこの勅命は十分實行せられなんだものと見え、武后の萬歳通天元年(西暦六九六)に、沙門の慧澄は前朝の決議により、『老子化胡經』を燒棄せんことを願ひ出た。武后は秋官侍郎劉如睿(また劉如※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]、劉汝※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]などに作る)等八學士に命じて『老子化胡經』の眞僞を論定させたが、八學士は老子化胡の事は漢・隋の正史に載せ、一概に捏造とのみ認め難しと復奏した。之に因つて道士は又勢を恢復し、道佛の爭は一層の激さを加へ、朝廷も遂にその弊に堪へざりしと見え、間もなく中宗の神龍元年(西暦七〇五)に、次の如き詔を下した。
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如[#レ]聞道觀皆畫[#二]化胡成佛之相[#一]。諸寺亦畫[#二]老君之形[#一]。兩教尊容。互有[#二]毀辱[#一]。深爲[#レ]不[#レ]然。自[#レ]今竝須[#二]毀除[#一]。其『化胡經』屡朝禁斷。今後有[#レ]留[#二]此僞經[#一]。及諸記録有[#下]言[#二]化胡[#一]者[#上]。竝與削除。違者準[#レ]勅科[#レ]罪。
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 この時隨分嚴重に搜索して燒き棄てたと見え、『舊唐書』の經籍志にも『新唐書』の藝文志にも、その書名を記載してない。〔我が藤原佐世の『日本國見在書目録』の道家部に『化胡經』十卷を收録してあるけれど、肝心の『化胡經』そのものは今日に傳らぬ。故に今日では當時の『化胡經』の内容を知ることが出來ぬ。ただ近年フランスの Pelliot 氏が敦煌から發見した『老子化胡經』の殘卷は、その内容や字體から推して唐時代のものと認められるから、之によつて過去の『化胡經』の幾分を窺ひ得るのみである。
『老子化胡經』に關する道佛二教の爭は、唐の中世以後一寸史乘に痕を絶つたが、五百餘年を經て、蒙古時代になると、『化胡經』が再び現はれて來て、二教の爭に復た又花を咲かした。蒙古時代に於ける道佛の爭は、尤も委細に元の念常の『佛祖歴代通載』に紹介されて居る。〕唐時代の『化胡經』と蒙古時代の『化胡經』との内容の異同は、兩時代の『化胡經』が共に全くは今日に傳來せぬから、一寸判定し難い。しばらく敦煌新發見の『老子化胡經』の殘卷
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