下げ]
寶歴菩薩下[#二]生世間[#一]。號曰[#二]伏羲[#一]。吉祥菩薩下[#二]生世間[#一]。號曰[#二]女※[#「女+咼」、第3水準1−15−89][#一]。摩訶迦葉號曰[#二]老子[#一]。儒童菩薩號曰[#二]孔丘[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
又『清淨法行經』といふには、儒童菩薩を孔子に充て、光淨菩薩を顏子に、摩訶迦葉を老子に充ててある。『清淨法行經』は北周の道安已に之を引用し、『造天地經』は北周の甄鸞《ケンラン》これを引用し、『須彌經』は唐初の明※[#「(廐−广)/木」、第3水準1−86−3]に引用されて居る。されば佛教徒が南北朝時代から、支那の聖賢を菩薩の化身として、佛教側に引き入れたことが明白である。明※[#「(廐−广)/木」、第3水準1−86−3]が三皇・五帝・孔・李・周・莊みな菩薩化身と主張して居るのは、化身説を極端まで應用したものである。この手段がやがて平安朝時代にわが國に輸入されて、本地垂迹の説となり、わが國では支那よりも一層の成功を見得たのである。
本地垂迹の説は、普通に傳教大師や弘法大師によつて創唱されたものとなつて居る。この二人は何れも入唐した。唐時代は道佛二教の爭の盛な時であるから、この二人も支那の僧侶が老子や孔子を菩薩扱にして、宗勢を擴張した先例を見て、歸朝の日に之を我が國に應用したのであらうと想像される。本地垂迹の説が完全に組織されて、何の神の本地は何の菩薩と一々附會されたのは、固より後世の事であらうが、化身説を利用して、神佛の調和を計らんとする傾向は、傳教・弘法の時からあつたので、これは支那から輸入したものであらうと想像される。十分の調査をして居らぬから、斯には單に想像というて置く。
六
王浮の僞作した『老子化胡經』は、兔も角も佛教徒に恐慌を起さしめた。佛教徒は熱心にその假僞を辯じた。『老子化胡經』の眞僞論は、南北朝から唐代にかけて道佛二教の爭の主要なる題目であつた。唐の高宗の總章元年(西暦六六八)に、復も僧道を宮中に會して、『老子化胡經』の眞僞を對決させたが、この時僧の法明、衆を排して出で、老子化胡の際に使用せし言語につき難問していふ、此際若し華語を使用せしとせんか、胡人は華語を解せざるべく、若し胡語を使用せしとせんか、何時代に誰人が胡語の『化胡經』を譯して漢文の『化胡經』となせしか、翻譯
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