與へねばならぬ。
 南宋時代に於ける福建地方の開發は、眞に刮目に價する。唐の中世まで人文未開の域であつた福建が、三四百年後の南宋時代になると、道學者の淵藪となつた。大儒朱子の如き安徽の産ではあるが、主として福建で修業をした。故に當時朱子の學派を指して※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]學と稱した。※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]とは福建の異名に過ぎぬ。實際道家若くば宋學の錚々たる者には、福建出身が多い。楊時(龜山)や胡安國や羅從彦や李※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23](延平)や、はた蔡沈・黄幹ら、何れも福建に人と爲つた。當時の人が、福建地方を指して、古の鄒(孟子の生地)魯(孔子の生地)又は古の中原に比したのは無理ならぬ次第である。福建に隣接する嶺南地方の文化が、之が爲に多大の影響を受けたこと、勿論といはねばならぬ。
 南宋は蒙古種族に滅ぼされて、元朝が支那を統一する。元の後が明で、明が滅亡すると、滿洲から興つた清朝が之に代つて天下を支配した。此の如く唐以後の北支那は、遼・金・元と引き續き、明一代を除いて又清といふ風に、絶えず塞外種族の壓迫や蹂躙によつて、傳
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