來の文物が萎靡する間に、南支那は比較的に此等の災厄から超脱して、その學術・文藝を保存長成することが出來た。
南宋以來の大勢を達觀すると、北支那の文化は到底南支那のそれに比敵し得ざること、明白にして疑を容れぬ。朱子を始め、宋の陸象山(江西省)とか、明の王陽明(浙江省)とか、大思想家は皆南支那の産である。清一代の思想・學術に甚大なる影響を與へた顧炎武(江蘇省)、黄宗羲(浙江省)、王船山(湖南省)等の先覺者も、亦同樣すべて南支那に屬する。公羊學の流行は、支那近代學界の一特徴であるが、この公羊學の開拓に功勞ある學者は、莊述祖(江蘇省)、※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]自珍《キヨウジチン》(浙江省)等南支那人が多い。その他變法自強の提唱といひ、孔子教の更張といひ、すべて此等の新氣運は、南支那から勃興して來る。
科擧は支那人にとつての登龍門である。支那人の學問・教育は、大半科擧を目的として居る。故に登第者の多寡は、其地方の文運を卜すべき一つのバロメーターともいへる。明清時代に於ける常科の登第者の數によつて、南北を對比すると、北支那は最早明白に南支那の敵でない。清朝の康煕時代や乾隆時代
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