地名である。同時代の柳子厚も亦、王叔文の黨徒として咎を受け、憲宗の時西暦八百五年に永州(湖南省)の司馬に貶せられ、ついで八百十五年に柳州(廣西省)の刺史に移された。彼の詩句に、一身去[#レ]國六千里、萬死投荒十二年とあるのは、柳州の作である。
 かく政治犯罪者――知識階級に屬する――が貶謫されて、その儘南方に永住する者、即ち當時いはゆる落南の人士が次第に多きを加へ、又唐の中世の安史の亂、さては唐末五代の亂に、北方の士庶の難を南方に避くる者も尠くなかつた。此等の理由によつて、福建・兩廣方面の文運も、代一代と開けて行く。殊に晉の南渡の後ち約八百年にして、宋の南渡が起る。西暦千百二十七年に、宋は塞外より起つた女眞(金)種族の爲に、その國都開封(河南省)を陷られ、宋の高宗は南に移り、遂に杭州(浙江省)を根據として、ここに宋室を中興した。宋の南渡と共に、北支那の名門・右族が多く王室に從つて江南に移住したことは、東晉時代と略同樣である。韓世忠(陝西省)、岳飛(河南省)、張俊(甘肅省)等、南宋の初期に活躍した人を見渡しても、北支那から南移した者が多い。此等の事情は勿論南方の開發に、可なり大なる影響を
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