から、併せて參考ありたい。
二
隋唐時代に南支那の風氣は一層開發されたが、その實こは南支那の北部、即ち今の江蘇・安徽・浙江方面に限つたことで、南支那の南部にある、今の湖南や江西の南邊、乃至福建・廣東方面は、唐時代に於ても、その文化頗る微々たるものであつた。福建地方で古來尤も勢力を有する、林・黄・陳・鄭の所謂四姓も、晉室南渡の頃に、北支那から茲に移住し來て、藝文儒術の萌芽を扶植したと傳へられて居る。されど唐の中世の頃まで、この地方の人物で進士の科、即ち當時の高等文官試驗を通過したものが、極めて寂寥たるのを見ると、當時の文化の程度の貧弱なること、察知し得て餘りあるではないか。
廣東・廣西方面は一層未開である。漢代から六朝を經て、唐代にかけて、嶺南地方は政治犯罪者、若くばその家屬の遠謫される場所であつた。韓退之が唐の憲宗の佛骨を迎ふるを諫めて罪を得、西暦八百十九年に潮州に流された。潮州は今の廣東省の潮安縣(もとの潮州府)に當る。有名な雲横[#二]秦嶺[#一]家何在、雪擁[#二]藍關[#一]馬不[#レ]前の句は、この時の作で、秦嶺も藍關も、唐都長安から潮州に至る途中の地名である。同時代の柳子厚も亦、王叔文の黨徒として咎を受け、憲宗の時西暦八百五年に永州(湖南省)の司馬に貶せられ、ついで八百十五年に柳州(廣西省)の刺史に移された。彼の詩句に、一身去[#レ]國六千里、萬死投荒十二年とあるのは、柳州の作である。
かく政治犯罪者――知識階級に屬する――が貶謫されて、その儘南方に永住する者、即ち當時いはゆる落南の人士が次第に多きを加へ、又唐の中世の安史の亂、さては唐末五代の亂に、北方の士庶の難を南方に避くる者も尠くなかつた。此等の理由によつて、福建・兩廣方面の文運も、代一代と開けて行く。殊に晉の南渡の後ち約八百年にして、宋の南渡が起る。西暦千百二十七年に、宋は塞外より起つた女眞(金)種族の爲に、その國都開封(河南省)を陷られ、宋の高宗は南に移り、遂に杭州(浙江省)を根據として、ここに宋室を中興した。宋の南渡と共に、北支那の名門・右族が多く王室に從つて江南に移住したことは、東晉時代と略同樣である。韓世忠(陝西省)、岳飛(河南省)、張俊(甘肅省)等、南宋の初期に活躍した人を見渡しても、北支那から南移した者が多い。此等の事情は勿論南方の開發に、可なり大なる影響を
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