以上に尊崇された鄭玄は北海(山東省)の人、支那嫌で有名な平田篤胤すら、孔子以後唯有[#二]孔明[#一]とて、その完全無缺の人格を推奬措かざる諸葛亮(孔明)は、瑯邪(山東省)の人、何れも北支那に屬する。兩漢三國時代を通じて、文化の中樞が依然北支那に存したことは、否定することが出來ぬ。
然るに今より約千六百年前に、匈奴・羯《ケツ》・鮮卑・※[#「低−にんべん」、第3水準1−86−47]《テイ》・羌等の所謂五胡と稱する塞外種族、或は之に烏丸《ウグワン》を加へて六夷と稱する塞外種族が、北支那を占領して、漢族の建てた晉室は、彼等の爲に、洛陽(河南省)、長安(陝西省)の舊都を奪はれ、揚子江の南の建康(江蘇省)に都を移して、東南半璧の天地に東晉を建設することとなつた。かくて古來漢族の根據地で、同時に文化の中心點であつた北支那が、爾後三百年間、殺伐野蠻な塞外諸族に占領さるると共に、彼等の支配の下に、漢族は多大の輕悔と虐待を受けたこと申す迄もない。彼等は漢族を斥けて漢狗といひ、又一錢漢といふ。漢とは漢族(支那人)のことで、漢狗とは狗同樣の漢人といふ意味、一錢漢とは一文奴の漢人といふ意味である。卑劣漢とか無頼漢とか、乃至癡漢・惡漢・沒曉漢とか、すべて人を痛罵する時に、漢の字を使用することは、五胡時代以後の慣習に外ならぬ。
之に反して南支那はこの三百年の間、終始漢族の天子を戴いた。晉室の南渡と共に、中國の貴顯・大官・名族・甲姓――學問に於て、知識に於て、當時尤も卓越した漢族――の多數が、塞外諸族の支配を見限つて、南支那に移轉し永住したことが、漢族特有の文化を傳播して、南方開發に多大の貢獻をなすに至つたこと勿論である、かくてこの期間に於ける人物は、却つて多く南方に輩出した樣に思ふ。書道の神と呼ばるる王羲之、畫家の聖と推さるる顧※[#「りつしんべん+豈」、第3水準1−84−59]之は、皆南支那に人と爲つて居る。兔に角南方の文化が優に北方のそれに對抗するを得、また南方の人物が優に北方のそれに比敵することが出來、時に或は之を凌駕せんとする勢さへあるといふことは、晉室の南渡以來の新現象で、確に破天荒の事件と申さねばならぬ。之に關するやや詳細の記事は、大正三年十月の『藝文』に掲げた、「晉室の南渡と南方の開發」(本卷[#「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」]一三七頁參照)。といふ拙稿中に述べてある
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