録』は、先生の尤も力を注がれた著述である。自分は内地出發準備に忙はしき時に、其の一部を受取つたので、其儘内地に留めて渡清したから、今に通讀する機會がなく、彼此の批評は出來ぬ。この『成吉思汗《ジンギスカン》實録』の原本ともいふべき『蒙文元朝祕史』は、たしか明治三十二年の頃文廷式氏が來朝の節、先生の宅で、先生や白鳥庫吉君が文廷式氏と會見されたことがある。吾輩も其の席末に列したが、其の時たしかこの書物の話が出て、文廷式氏より其の抄本を日本に送るといふことであつた。其の後約の如く文廷式氏より抄本を内藤湖南君に寄せ、内藤君より那珂先生に傳つたものである。この間の消息は内藤君が尤も承知して居らるる筈である。
『成吉思汗《ジンギスカン》實録』が出版されて間もなく先生を訪うた時、先生は尨然たる草稿を示されて、『成吉思汗《ジンギスカン》實録』著述の際、蒙古に關する漢洋の史料を渉獵した間に、種々從來氣附かなんだ事柄を發見して、一寸抄録したのが是だけある。之を纏めたならば『成吉思汗《ジンギスカン》實録』以上の大部の書物が出來る。追々は『別録』とか『餘録』とか名づけて、世に公にする積りであるといはれた。尚先生の未定稿としては「皇元聖武親征録」の註がある。是は漢文で書かれたもので、兩三年前已に淨書し終つたが、其後多少改訂すべき點を發見されたとかで、其儘になつて居る。是等の書が先生の手によつて、十分校訂されて出版せられたならば、學界を裨益すること、決して『成吉思汗《ジンギスカン》實録』に劣らぬであらうに、返す返すも殘念なことである。
先生に就て尤も敬服すべき點は、其の研究の態度の根本的《オリジナル》であることである。前人の糟粕を嘗めて、其の足らざる所を拾綴して行くといふことは、先生の餘り屑とせられぬ所で、成るべく前人未發のことを闡明して行きたいとは、先生の始終の心掛けであつた。東洋史の内でも、特に蒙古史の研究に心神を傾注せられたのも、或はこの理由からかも知れぬ。一體わが國の學者の多數は、西洋人の所説を其の儘取り次ぐか、若くは多少之を敷衍するか、然らずとも彼等の暗示《ヒント》によりて研究の題目を得るといふに過ぎぬ。先生は決して左樣でない。眞に獨立濶歩の概がある。一度研究の緒を得ると驚くべき氣根と、勉強とを以て幽を闡き微を發かねば止まぬのである。先生は外國文を綴ることは不得手であつた故か、其研究の結果を汎く世界に發表せられぬから、歐洲の學者間には名を知られなかつたが、若公平に批評したならば、先生は世界現今の東洋史界に於て、少くもドイツのヒルト氏(Hirth)や、フランスのシャヴァンヌ氏(Chavannes)と、同等以上の位置を占むべき實力があつたと吾輩は確信して居る。
清朝の學者のうちでは、顧炎武や錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]を重じて居られた。顧炎武の『日知録』や、錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]の『養新録』は、時々漢文の教科書代りに採用された。陳※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]の『東塾讀書記』も隨分使用された。最近では教科書代りとして、崔述の『考信録』を盛に使用せられた。
この『考信録』に就いては世間に隨分反對論者が多い。吾輩も決して崔述の謳歌者ではない。現に其の一部の説に就いては先年史學會の講演で反駁の意見を發表した位である。併し虚心平氣にて論ずると、崔述は支那の學者に稀有な明晰なる頭腦をもつて居る。『考信録』は完全無缺とはいへぬけれど、之を馬繍の『繹史』や、李※[#「金+皆」、第4水準2−91−14]の『尚史』や、さては羅泌の『路史』などいふ支那の古代史に比較して見ると、材料の選擇といひ、斷案の明快といひ、到底日を同くして談るべからずである。那珂先生の之を推奬せられたのも十分の理由あることと思ふ。
一體崔述といふ人は實に轗軻不遇の人で、生前は貧苦の間に沈淪し、死後も餘り支那學者間には知られなかつたのである。那珂先生はかねて其の爲人と所説を慕はれて、明治三十三年に、今京都大學に居らるる狩野直喜君が支那へ留學せらるる時、特に『考信録』の購買を依頼し、狩野君の手より那珂先生の手を經て、『考信録』はわが學界に紹介せられたものである。那珂先生は尤も崔述を推奬して、『那珂東洋史』の内にも特に彼の爲に一頁以上の記事を費されて居る。崔述は其の死後百五十年、海外の日本で、先生の如き有力なる知己を得た以上は、以て瞑すべしである。
『考信録』の外に、清の洪鈞の『元史譯文證補』も亦那珂先生の手によつて我學界に紹介されたものである。洪鈞は外國公使として歐洲滯在中に、ラシッドウッヂン氏(Rashid ud Din)の『蒙古全史』(Jami ut Tewarikh)といふ書物を手に入れ、其他ハンメル(Hammer)、ウォルフ(
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