第一の功績は、東洋史の開拓と發達とである。東洋史といふ科目を成立させたのも先生で、東洋史の教科細目を規定したのも亦先生である。先生が東洋史の研究に興味をもたれたのは、隨分古い時代のことと想像される。たしか明治十年頃のことと記憶するが、先生はわが國の紀元、即ち『日本書紀』の記事を基礎とした紀元は疑ふべきものがある。日本の紀元は實際より六百年ばかりも延長して居ると思はれるといふことを論ぜられたが、之には支那史や朝鮮史の方面の材料をも隨分利用されてあつた。この論文は後に明治二十一二年の頃の『文』といふ雜誌に轉載せられた。之に對する贊否の議論は非常なもので、頗る當時の學界を賑はしたものである。
 一體わが國の紀元に就ては、隨分古き頃から疑ひを挾む人があつた。吾輩の記憶する所では、藤井貞幹の『衝口發』などが其古きものの一である。此人は神武天皇の御即位紀元の歳は支那の東周の時代ではなく、西漢の末頃に當るべきものであるといふ、極めて大膽な議論を主張したものだ。之に對して本居宣長は、『鉗狂人』といふ書物を著して熱心に辯駁を試みたが、併し本居翁も日本の應神、仁徳天皇以前の年代は、實際よりも多少延長して居るらしいといふ疑ひはもつて居つたのである。其の後石原正明の『年々隨筆』のうちにも、可なり精細な考證があつて、矢張り日本の紀元の疑ふべきことを主張して居る。併し勿論那珂先生の論文の如き堂々たるものは一もない。『文』といふ雜誌に紀元論が喧しくなつてから、學者の之に關する議論も多く世に公にせられたが、其のうちで那珂先生の論文と星野博士の論文とは流石に他を壓して居つた。殊に那珂先生のは尤も立論精確のやうに見受けられた。先生はこの紀元の事を研究する時に、支那朝鮮の古史をも比較參考せられたが、やがて日韓清古代の交通のことを仔細に研究さるることとなつた。或はこの三國古代の交通史を研究さるる間に、日本の紀元の疑ふべきことを發見されたのかも知れぬ。其れは何れにしても、先生のこの方面に關する智識は實に確なものである。明治二十七年頃の『史學雜誌』に連載された「朝鮮古史考」、及び同じ雜誌に掲げられた高勾麗の好大王(廣開土王)の碑の考證などは、今日に迄學者の推奬する所だ。
 有名な『支那通史』はたしか明治二十一年頃に出版されたものと記憶する。是れは支那の太古より宋末迄を漢文で五册に書いたもので、材料といひ、體裁といひ、又文章といひ、實に立派なものである。名は『支那通史』といふけれど、朝鮮半島、滿洲地方及び塞外地方の歴史をも遺憾なく記載してあるから、やがて先生によりて東洋史科の設立を唱道せらるるに至つた基礎は十分其間に認められるのである。殊に驚くべきは、この時代に於て、先生は早く西洋方面の材料を利用されたことで、唐代の蘇魯支(Zarathustra)教や、摩尼(Mani)教や、景教(Nestor)のこと、さては唐代に於ける囘教徒の貿易通商のことまで十分に記載されてある。吾人は平常から、日本人の手になつた支那歴史や東洋歴史は殆ど一部も讀んだことがない。但し先生の『支那通史』のみは絶えず左右に置き、今日まで參考に資して居る。
『支那通史』は盛に支那人間に喧傳せられ、上海《シャンハイ》あたりでは早くより其の飜刻も出來、また『續支那通史』などいふ『支那通史』の後を承けて、元明清時代のことを記載した書物も出版されて居る位である。但しこの『續支那通史』は、日本の増田とかいふ人の作つたものだが、體裁といひ、材料といひ、文章といひ、實に拙劣極まるもので、先生の『支那通史』に對しては眞に狗尾を續ぐの憾がある。
 明治二十七八年頃と思ふ。『大日本教育會雜誌』に、先生の東洋史十囘講義の筆記が掲げられてあるが、簡にして要を得、流石に先生なればこそと思はるる點も尠くない。明治三十六年頃に出版された『那珂東洋史』は中學校の教科書を目的としてつくられたものだが、紙數多きに過ぐとかで餘り採用はされなんだが、勿論其の前後に群出した無責任な東洋史教科書の間に在つて異彩を放つて居る。吾輩は世の東洋史を學ばんとする人には、是非この書を一讀せんことを勸めるのである。其他先生の東洋史に關する論文は、大抵『史學雜誌』に載せられて居る。何れも皆金玉の文字であるが、煩を厭うて一々は紹介せぬ。
 この外、先生には『東洋歴史地圖』の著がある。是れは明治二十七八年の頃、先生が第一高等學校の教授であつた時に製圖されたもので、蒙古時代と隋唐時代(主として法顯玄奘の印度へ行つた時代の地理を明かにしたもの)と二枚だけ出來上つたが、印刷の困難やら、書舖の辭退やらで、中々出版といふ運びに至らなんだ。蒙古時代の方だけは、明治三十二年頃に出版されたが、隋唐時代の方は、終に出版されなんだ樣に記憶して居る。
 最近出版の『成吉思汗《ジンギスカン》實
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