Wolff)、ドオソン(D'Ohsson)、ホウォルス(Howorth)、ベレヂン(Berezin)などいふ英、獨、露其の他の學者の蒙古史に關する著書を參考し、東西の史料を比較してこの書を作つたので、元史を研究する者は是非一讀せねばならぬ良著である。この書はたしか明治三十一年の初めに、當時|上海《シャンハイ》に居られた文學士藤田豐八君から、先生及び吾輩宛に送られたものである。
また清の李桓の『耆獻類徴』といふ書物がある。是れは清朝の國初より道光年間に至る各人物の傳を輯録したもので、是種の著述としては尤も完備したものである。今日では帝國大學の圖書館や高等師範の圖書館に備へ附けられて、學者間に珍重されて居るが、是の書物もたしか先生の紹介の功多きに居ると思ふ。併しこの事は吾輩の記憶が十分でないから斷言は出來ぬ。
先生が帝國文科大學の講師を囑託されたのは、明治二十九年の秋で、三十六年まで繼續された。三十六年の文科大學の學制改革の時に、講師をやめられた。東京高等師範には、明治二十七八年の頃から今日まで十五年許りも勤續されて、學校内では教授生徒の間に中々勢力をもつて居られた。先生は後藤教授、三宅教授と共に、高師の三尊と稱せられて居つた。其ほかに早稻田大學、淨土宗大學にも出講されたから、可なり多忙であつた。學校から歸ると直に二階の書齋に立て籠りて、讀書三昧に一日を送られた。家計のことや、交際のことには無頓着の方で、約束した會合の席に、日限や時刻を間違へられたり、學校の授業に、時間や教室を間違へられたことは珍らしくない。吾輩も隨分輕卒家で、時間や教室を間違へること多く、廣き高師の廊下を彼處此處へ彷徨ふ時に、必ず那珂先生も教室不明の爲に困却されて居るに出會した。
かく家事世事には無頓着な先生は、學問上のこととなると非常に入念なもので、讀書なども極めて精細に注意せられ、事實の異同や、文字の相違まで、必ず他書と比較して一々書き入れをせられたものである。例せば『法顯傳』の如きも、ジャイルス氏(Giles)、ビール氏(Beal)、レッグ氏(Legge)などの諸譯を對照して、一々異同を書き誌されて居る。著書に對する注意も同樣で、印刷も一々自分親しく校正の勞をとり、一字一畫の微をも忽にせられぬ。『那珂東洋史』などは殆ど印刷上の間違はないというてよき位である。活版所に就いて聞いたなら、先生ほど校正に嚴密なる人は他に多くないといふ證言を提供することと思ふ。
讀書以外先生第一の嗜好は自轉車であつた。自らも轉輪博士と稱して居られた位である。自轉車に就いての失策や逸話も多いが斯にはいはぬ。次に圍碁を好まれた。高師教員中第一の腕前で、彼此田舍初段近くの伎倆あると聞いた。玉突も一時は熱心に練習された。吾輩の内地出發の際、旅行に必要故、追々寫眞の練習を始めたしと申されたが、是は實行されなんだ樣子である。先生は平常餘り交友を求められなんだ樣子である。高等師範の同僚は措き、其の以外では東京大學の白鳥君、京都大學の内藤君などとは終始交際されて居つた。矢野文學士(北京《ペキン》仕進館教習)、中村文學士(もと廣島高等師範教授今は東京高等師範教授)、高桑文學士(早稻田大學講師)其の他東洋史の研究に從事せらるる人々は、大抵先生方へ出入して居られたやうである。
先生は正直であると同時に短氣であつた。人の間違つたことでも自分に關係なき事は其の儘にするといふ、當世風のことは先生の氣質として到底出來なかつたことと見える。其で先生は他人と衝突組打などをした歴史を尤も多くもつて居らるる一人であつた。明治二十六年の頃、先生が華族女學校に奉職して居られた時に、幹事の北澤正誠といふ男を蹴り倒して、事が面倒となり、遂に辭職されたことは有名の談である。この事件に就いて、吾輩は曾て當時の目撃者また關係者であつた人から、委細の事實を聞いたが、那珂先生の方に十分同情すべき理由があるのである。
この北澤といふ男は、たしか信州の産で、曾て東京地學協會の幹事などをやつて居つた人である。其の節、平城天皇の御子、高岳親王即ち眞如法親王が佛蹟禮拜の爲渡天の際、羅越といふ處で御隱れとなつたが、其の羅越は老※[#「てへん+過」、第3水準1−84−93]《ラオス》である、何でも高岳親王の御墓所は暹羅《シャム》の北境にあるに相違ないといふ説を唱へ出した人である。是の説は根據極めて薄弱であるに拘らず、隨分贊成者もあつて、後には暹羅《シャム》政府とも交渉して御墓所を搜索するといふ騷ぎになつたが、勿論失敗に終つたのである。この人は後に伊豆か小笠原あたりの島司となり、三四年前に死去したと記憶して居る。
北澤以外の人とも隨分衝突されたが、現在の人に關係あるから態と斯にはいはぬ。其れで世間からは、那珂といふ人は我武者で、偏屈人で、
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