の結果を汎く世界に發表せられぬから、歐洲の學者間には名を知られなかつたが、若公平に批評したならば、先生は世界現今の東洋史界に於て、少くもドイツのヒルト氏(Hirth)や、フランスのシャヴァンヌ氏(Chavannes)と、同等以上の位置を占むべき實力があつたと吾輩は確信して居る。
 清朝の學者のうちでは、顧炎武や錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]を重じて居られた。顧炎武の『日知録』や、錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]の『養新録』は、時々漢文の教科書代りに採用された。陳※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]の『東塾讀書記』も隨分使用された。最近では教科書代りとして、崔述の『考信録』を盛に使用せられた。
 この『考信録』に就いては世間に隨分反對論者が多い。吾輩も決して崔述の謳歌者ではない。現に其の一部の説に就いては先年史學會の講演で反駁の意見を發表した位である。併し虚心平氣にて論ずると、崔述は支那の學者に稀有な明晰なる頭腦をもつて居る。『考信録』は完全無缺とはいへぬけれど、之を馬繍の『繹史』や、李※[#「金+皆」、第4水準2−91−14]の『尚史』や、さては羅泌の『路史』などいふ支那の古代史に比較して見ると、材料の選擇といひ、斷案の明快といひ、到底日を同くして談るべからずである。那珂先生の之を推奬せられたのも十分の理由あることと思ふ。
 一體崔述といふ人は實に轗軻不遇の人で、生前は貧苦の間に沈淪し、死後も餘り支那學者間には知られなかつたのである。那珂先生はかねて其の爲人と所説を慕はれて、明治三十三年に、今京都大學に居らるる狩野直喜君が支那へ留學せらるる時、特に『考信録』の購買を依頼し、狩野君の手より那珂先生の手を經て、『考信録』はわが學界に紹介せられたものである。那珂先生は尤も崔述を推奬して、『那珂東洋史』の内にも特に彼の爲に一頁以上の記事を費されて居る。崔述は其の死後百五十年、海外の日本で、先生の如き有力なる知己を得た以上は、以て瞑すべしである。
『考信録』の外に、清の洪鈞の『元史譯文證補』も亦那珂先生の手によつて我學界に紹介されたものである。洪鈞は外國公使として歐洲滯在中に、ラシッドウッヂン氏(Rashid ud Din)の『蒙古全史』(Jami ut Tewarikh)といふ書物を手に入れ、其他ハンメル(Hammer)、ウォルフ(
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング