、欽明天皇の御世にかけて、三四百年間は、我が國の勢力の下に立つたこともあるが、併し大體上支那の保護國といふ有樣であつた。朝鮮といへば、直に事大思想を連想する。事大とは『左傳』の大不[#レ]字[#レ]小、小不[#レ]事[#レ]大(哀公七年)や、『孟子』の以[#レ]小事[#レ]大者畏[#レ]天者也、畏[#レ]天者保[#二]其國[#一](梁惠王下)から出た文句であるが、朝鮮人は昔から、尠くとも高麗時代から、大國の支那に服事するを以て天則を奉ずるものと心得て居つたのである。所が明治二十七八年の日清戰役の結果、支那は始めて朝鮮から手を引くこととなり、續いて日露戰役で、日清戰役後一時朝鮮に勢力を振うた露國も手を引き、かくて朝鮮は完全に我が國の保護の下に立つこととなり、遂に明治四十三年の併合といふ運命に歸したのである。日本は隨分古くから朝鮮と關係があつたといふ條、その勢力は寧ろ微々たるものであつた。神功皇后御征韓後と雖ども、その勢力は廣さに於ても深さに於ても、勿論明治の御世のそれに比すべくもなかつた。要するに朝鮮の併合は、國史あつて以來の偉業で、東洋史の上からいうても、尤も注意すべき大事件の一つと數
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