られ、和田英松氏がこの文書に解説を附けて居る。これは朝廷の御威光の衰へ切つた、足利時代の初期に出來たものであるさうだが、これにも支那から、天子又は皇帝等同等の稱號を用ゐてある文書を送れば、受取るけれど、國王など書いた文書は、決して受附けぬ。受取つても返事を出さぬが慣例となつて居る。世界を統一せん勢あつた蒙古に對してすら、我が國では對等の位置を固守して、一歩も讓らない。弘安の役は之が爲に起つたともいへる。
 乃木大將と共に有名になつた『中朝事實』といふ書物があるが、之は山鹿素行先生の著で、中朝とは我が日本を指したものである。又水戸藩で編纂した『大日本史』には、支那を諸蕃傳に列してある。古來支那以外の東亞の國で、中朝と稱したものはない。支那を諸蕃扱にしたものは、尚更見當らぬ。併し日本人の立場からいへば、支那が中國と稱する以上、日本も中朝と稱すべきである。支那の歴史に日本を東夷傳に入るる以上、日本の歴史に支那を諸蕃傳に列して、不思議はないのである。一寸とした書物の標題や體裁にまで、對外硬の主義を發揮して居る。
 朝鮮に對してはさきに述べたるが如く、神功皇后の御雄圖も、欽明天皇の御世前後に衰へ
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