となると共に、スペイン人の發見した新大陸と、アジア大陸の東部との混同も次第に改正されて、十六世紀の後半期に作製された世界地圖には、新大陸及びアジア大陸の位置、及び日本の位置も、ほぼ實際と大差なく表現される樣になつた。
十六世紀の半頃からポルトガル人が我が國へ渡航して來るが、彼等は我が國をジャパン(Japan=Japao)と呼んだ。ジャパンはヂパングのヂパン同樣に、日本といふ國號の支那音で、ポルトガル人は直接に支那人からか、又は間接にマレー人を通じて、我が國號を傳へ聞いたものと想はれる。ポルトガル人はこのジャパンを、位置から觀ても、名稱の類似から觀ても、殊にその金銀の多量なる點から觀ても、マルコ・ポーロの所傳のヂパングに相違ないと信じた。
金銀の多量といふのは、丁度ポルトガル人が我が國に通交を開く頃は、我が國の金銀の最も多量に産出しかけた時代であつた。丁度戰國時代のこととて、諸方に割據せる群雄は、各自の財政を豐にすべく鑛山發掘を奬勵いたし、天下統一の後も秀吉や家康はこの奬勵を繼續した。故に天正時代から慶長元和時代にかけての頃、即ち十六世紀の後半から十七世紀の前半にかけての五六十年間
前へ
次へ
全42ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング