西暦九世紀の半頃から、西アジアのマホメット教徒の間に知られたが、歐洲のキリスト教徒の間には、未だその存在を知られなかつた。日本の國名の始めて歐洲に傳つたのは、それより約四百五十年後の元時代、丁度西暦十三世紀の終頃からの事である。元即ち蒙古は太祖成吉思汗以來四方を征服して、大なる版圖を拓き、その孫に當る世祖忽必烈の頃になると、當時の世界の大半を併呑して仕舞つた。西はロシアから東は朝鮮半島の高麗に到るまで、悉く元の支配の下に立ち、南洋諸國も大抵元に朝貢した。かくて歐亞の二大陸に跨る空前の大帝國が出現して、從來一隅に割據して居つた諸小國の障壁が除き去られると、東西兩洋の交通が頗る便利となり、ドイツ人やフランス人などの歐洲人や、西方アジア人達が續々支那に出掛け又はここに移住した。同時に多數の支那人も西方に出掛け、ペルシアのタブリズ(Tabriz)といふ都會や、ロシアのモスカウ(Moscow)や、更に内地のノヴゴロード(Novgorod)といふ都會に、支那人の居留地が出來るといふ状況で、中世期で蒙古時代程東西の交通の盛大を極めた時代がない。最近に西暦一九二〇年にローマ教皇の古文書局から發見された
前へ
次へ
全42ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング