、成吉思汗の孫に當る元の定宗|貴由汗《クユクカン》から、西暦一二四五年にローマ教皇インノセント(Innocent)四世の許に贈つた書翰は、棉紙にペルシア語で書き、ロシア人のコスマス(Cosmas)の手で彫刻されたと信ずべき、支那風の四角型の國璽の璽文はウイグール字を朱肉で捺してある。この書翰を蒙古の國都の喀喇和林《カラコルム》から歐洲のローマに到る間を、イタリーの僧侶のプラノ・カルピニ(Plano Carpini)が持ち歸つた事實は、よく元時代の特色を發揮して居ると思ふ。兔に角元時代には或は宗教上の目的で、或は商業上の目的で更に又政治上の目的やら生活上の目的やら、種々の方面から、歐洲人が尠からず支那方面へ來集したが、その中で最も有名なのが、かのマルコ・ポーロ(Marco Polo)である。
マルコ・ポーロは申すまでもなくイタリーのベニス(Venice)の人である。彼は西暦一二七一年に年十七歳の時に、父に伴はれて故郷を後に東洋に出掛け、東洋諸國を遍歴しつつ、一二七五年に支那に到着して、元の世祖に拜謁して非常な優遇を受け、足掛け十八年ばかり支那に滯在した。即ち一二七五年から一二九二年ま
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