フ天文と、印度系の天文と、支那傳統の天文とが、三つ巴となつて優劣を爭うた。この最中に支那に一行といふ偉大な天文學者が出て、開元九年(西暦七二一)から十五年(西暦七二七)までかかつて、最も完全なる大衍暦を作製した。一行は開元十五年に年僅か四十五歳で死んだが、彼の死後に種々の實驗によつて、大衍暦が最も優秀であることが立證されて、開元十六年から唐の朝廷に採用され、やがて又我が國にも採用されたのである。
この大衍暦の實質については、西洋の天文學者が隨分早くから研究して居り、また我が國の天文學者も相當深く研究して居る。私の友人のさる天文學者の研究によると、この大衍暦は頗る優秀なもので、今日現行の太陽暦に比して、餘り遜色がないといふことである。私の友人から傳へ聞いた所によつて、大衍暦と現行の太陽暦を對比すると、次の如く接近して居る。
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大衍暦 太陽暦
太陽年 365日 2444 365日 2422
太陰月 29日 53059 29日 530588
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即ち一年の長さの測量といひ、一月の長さの測量といひ、兩者は殆ど一致といふ程接近して居る。千二百年前の諸事不便な時代に出來た大衍暦としては、その精確なること驚嘆に價ひすべきではないか。
されば西洋の天文學者の間に於ける一行の名譽は非常なものでフランスのパリ、サント・ジュヌヴィエヴ(〔St.Genevie've〕)といふ有名な圖書館の入口に、世界の古今を通じて最も傑出した大科學者三十三人許りの名を鑿りつけてある。その三十三名中に一行が加へられ、一行を現代支那音で現はしたイーシン(Y−hsing)といふ名が、そこに鑿り付けられて居る。コペルニクス(Copernicus)やニュートン(Newton)などの西洋の大科學者の間に伍して、獨り東洋を代表する一行の名が、燦として異彩を放つて居るといふ。此の如き大天才の一行の作製した優秀なる大衍暦は、間もなく日本に將來採用されたに拘らず、新羅は遂に之を採用せなかつた。この一事によつても、兩國人の新しい文化、新しい知識に對する熱心の相違が判然するではないか。
時代は八百年程降るが、ポルトガル人が西洋の新式鐵砲を東亞に輸入した場合にも、同じ例證を提供することが出來る。この場合にも日本人は支那人に比して、新
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