完全であつたと想像せらるるに、優秀なる大衍暦が出來ても、新羅の政府は遂に之を採用せなかつた。新羅は支那との交通が頻繁であり、便利であつたに拘らず、此の如く新しい文化、新しい知識を輸入するのに不熱心であつて、到底我が國と同一に談《かた》ることが出來ぬのである。
序に申述べるが、この大衍暦は支那で出來た古今の暦のうちで、最も優秀なる暦であるのみならず、世界に對しても誇るに足るべき優秀なる暦であつた。この暦は支那の有名な一行といふ僧侶が、唐の玄宗の開元年間に作製したものである。玄宗の開元の初期に使用されて居つた暦は、唐の高宗の麟徳二年(西暦六六五)に、之も有名な李淳風の作つた麟徳暦であるが、開元の頃となると、この麟徳暦が不正確となり、暦と天體の運行とが一致を缺くことになり、暦表に日蝕と記載してある日に日蝕がなかつたり、種々の不便が起つたので、改暦の必要を感じた。
唐の天文臺には早くから、印度人の天文學者が勤務して居つたが、玄宗時代に改暦の氣運が熟すると、當時の太史監で後世の天文臺長ともいふべき位置に在つた、印度人の瞿曇悉達(〔Gautama Siddha'rta〕)といふ天文學者は、印度暦の名譽を發揮するには、この時機を逸してはならぬと考へ、開元六年(西暦七一八)に印度暦を漢譯して九執暦を公にした。九執とは梵語 〔Navagra^ha〕 の意譯である。Nava とは九といふ數で、〔Gra^ha〕 の本來の意味は「執へる」又「掴へる」ことであるが、同時にその本義を延ばして曜《ほし》をも意味する。曜は人間の運命を掴へて支配するといふ考から、曜をも 〔Gra^ha〕 と稱するのである。印度の天文は日・月・水・火・木・金・土、其他の都合九個の 〔Gra^ha〕 を本とするから、その暦を九執暦又は九曜暦と稱したものと思ふ。
かくて玄宗の開元六年に印度の天文學者の瞿曇悉達が改暦の參考に供すべく、九執暦を漢譯すると、更にその翌年の開元七年(西暦七一九)に中央アジアの吐火羅(Tokhara)國の王が、唐改暦の噂を聞き傳へたと見え、天文學に堪能なる其國の僧侶を長安に送つて、改暦の手傳ひを願ひ出てゐる。また同じ年に今のアフガニスタン地方に當る迦畢試(Kapisa)國の政府からも、天文に關する文獻を唐の朝廷に送呈して居る。兔に角唐の朝廷で改暦の議が始まると、中央アジアのイラン(波斯)系
前へ
次へ
全21ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング