しい知識を攝取する熱心が、遙に多大であることが證明される。一體鐵砲に必要缺くべからざる火藥は、今から九百年程前に北宋時代に、支那で發明されたもので、この火藥を利用した鐵砲といふ武器が戰場に現はれて來たのは、南宋時代からである。
元來※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]又は砲とは石を飛ばす機械で、支那では秦漢時代、若くばその以前から戰爭に使用されて居つた。丁度撥釣瓶の樣な仕掛で、大きい石を敵陣の中へ撥ね飛ばすのである。所が火藥が發明されて、これを武器に利用する樣になると、鐵の器の中へ火藥を充填して之に火を點け、同樣の仕掛けで之を敵陣へ撥ね飛ばして、爆發せしむることとなつた。石を飛ばす普通の砲と區別して、之を鐵砲とも火砲ともいふ。これが鐵砲の本義である。この鐵砲は支那では南宋から元時代にかけて、戰爭に使用されて居る。
元の世祖が我が國に入寇した時、即ち弘安四年(西暦一二八一)の役に蒙古軍はこの鐵砲といふ新武器を使用して、大いに我が軍を惱ました。この時代の鐵砲などは、事實さして大なる效力はなかつた筈と想はれるが、兔に角日本人にとつては、全く未見未聞の新武器とて、實效以上の威嚇を與へたものと見え、當時の記録にも、
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てつほうとて鐵丸に火を包で烈しく飛ばす。あたりてわるゝ時、四方に火炎ほとばしりて、煙を以てくらます。又その音甚だ高ければ心を迷はし、きもを消し、目くらみ、耳ふさがれて、東西を知らずなる。之が爲に打るゝ者多かり。
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などあつて、我が將士が敵の鐵砲の攻撃に、困難恐慌した有樣を察知することが出來る。
支那で發明された火藥は、蒙古時代に歐洲方面へ傳つた。之には從來種々異説もあるが、今日では一般に火藥は東洋から歐洲に傳つたものと認められて居る。火藥が傳ると間もなく之を利用した新式鐵砲、即ち金屬製有筒式火器が製作されて、戰爭に使用されて來た。この新式鐵砲は支那の舊式鐵砲に比して、可なり有效であつたが、それが更に次第に改良されて、十六世紀の初期になると、餘程有效な武器となり、歐洲の在來の戰術も、之が爲に一變する氣運となつた。
この十六世紀の半頃の天文十二年(西暦一五四三)にポルトガル人が我が大隅の種子島へやつて來て、新式の鐵砲を輸入した。丁度戰國時代の事とて、この舶來の新武器の鳥銃が、瞬く間に日本全國に採用された。我
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