が國に於ける鐵砲傳來の歴史に最も關係のある、ポルトガル人ピント(Fernam Mendez pinto)の記録を信ずるならば、新式鐵砲即ち鳥銃が我が國に傳來して僅に十三年後の一五五六年の頃には、新式鐵砲は驚くべき勢ひで日本全國へ行渡つて、豐後の府中(Fucheo)すなはち今の大分の城下だけでも三萬梃の鐵砲があり、日本全國を總計したならば、恐らく三十萬梃位の鐵砲が使用されて居つたといふ。たつた十三年でこの有樣である。これは日本人が鐵砲の製造法をポルトガル人から學び傳へて、盛んに製造したからで日本人が新式武器を取入れる熱心には、流石のピントも驚嘆して居る。ピントの傳ふる所の鐵砲の數などはしばらく疑問として措いても、當時の日本人が、新式武器を利用する熱心は、外國人をして感心せしむる程であつた事實は疑ふ事が出來ぬ。
天文十二年に新式鐵砲が我が國に傳來してから、五十年經つた文禄元年(西暦一五九二)になると、豐太閤の朝鮮征伐が始まる。この頃には新式鐵砲は我が國の最も有力な武器となつた。當時朝鮮人は全然新式鐵砲の使用を知らぬ。支那人は我が日本人より約三十年も早くポルトガル人と觸接して居り、從つて我が國人よりも早く新式鐵砲の效能を承知して居つた筈であるが、例の保守的氣質で、我が國人の如く熱心にこの新武器を歡迎せなかつた。故に文禄征韓の頃になつても、舶來の新式鐵砲は、中々支那内地に行渡つて居らぬ。殊に朝鮮に出掛けた北支那遼東方面の明軍などは、朝鮮人以上に新式鐵砲の使用に不案内であつた。それで朝鮮人も明人も、皆我が軍の新式鐵砲に辟易して居る。
當時日本軍の戰術は、一番先に鐵砲でドーンとやる。かくして敵を威嚇して置いて、向ふが驚いてうろうろする間に、日本刀で斬り捲くる。これが日本軍の戰術であつた。それで支那人や朝鮮人の書いた、この時代の記録を見ると、何れも日本の鐵砲と刀とこの二の武器に非常に閉口して居る。文禄征韓の役に我が軍が勝利を得た原因は、種々あるであらうが、この新式鐵砲を利用したことが、確にその主要なる原因の一と認めねばならぬ。三百年前の弘安の役には、日本は蒙古高麗聯合軍の爲に、舊式の鐵砲で散々に苦しめられたが、三百年後の文禄の役には、竹篦返へしに、新式の鐵砲で明と朝鮮の聯合軍を散々に打ち破つた。鐵砲で受けた苦しみを鐵砲で首尾よく仕返しをしたといふ譯である。これも畢竟我が國人が
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