新しい武器を支那人よりも遙に熱心に歡迎利用した結果に外ならぬ。此等二三の實例によつても我が國人が支那人や朝鮮人以上熱心に、古來知識を海外に求めて、外國の長所を採用した一端を窺知し得ると思ふ。
さて本題に立ち返つて我が國外と國との交通の跡をたづねると、第一が朝鮮半島との交通で、次が支那大陸との交通である。支那との交通は漢時代から始まり、隋唐時代に盛大を加へた。かくて我が國は支那とは盛に交通したが、支那以西の諸國とは、直接に交通を開かなかつた。されど支那は、殊に唐時代の支那は、世界文化の中心であり、且つ又外交の中心であつたから、あらゆる諸外國の人達がここに來集したから、我が國人は直接西方に出掛けずとも、支那で遠西諸國の人達と觸接の機會が尠くなかつた。
この唐時代に世界で一番貿易通商に活躍したのはアラビア商人で、彼等アラビア商人は、西はアフリカの西端から、東はアジアの東端に至る間の、即ち舊世界の殆ど端々に至るまでの貿易權を握つて居つて、南支那へも隨分澤山のアラビア商人が來集居留して居つた。殊に揚子江の口にやや近い揚州といふ處は、入唐の日本人が必ず通過せなければならぬ都市であるが、ここに幾千人のアラビア商人が滯在してをつた。自然アラビア商人は支那で日本人と觸接する機會も尠くなく、また日本國に關する知識を得る譯である。
當時のアラビア商人即ちマホメット教徒は、我が國の名をワクワク(〔Wa^kwa^k〕)と傳へて居る。ワクワクとは申す迄もなく倭國の音譯である。支那人は古く我が國を倭國と呼んだ。唐時代の支那人も同樣に我が國を倭國と呼んだ。唐時代には日本といふ國號も既に出來ては居るが、この日本といふ國號は、日本人自身の付けたもので、唐時代の支那人は餘り使用せぬ。唐時代の支那人は依然我が國を倭國と稱した。直接我が國へ通交せず、支那で日本人と接觸の機會があつたにしても、一般の場合では支那人を通じて我が國號を知つた所のアラビア商人等は、支那人同樣に、我が國を倭國と呼んだことに何等の不思議もない。唐時代の支那人は倭國をワクウオク(Wa−kwok)と稱した筈であるから、そのワクウオクを聞き傳へたアラビア商人達が、ワクワク(〔Wa^kwa^k〕)と訛つたものであらう。
このワクワクすなはち倭國といふ我が國號が、始めてアラビアの記録に現はれたのは、西暦九世紀の半頃丁度八五〇年の頃即ち唐
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