に開國以來の金銀の流出は、主として支那の生絲絹織物の輸入――ポルトガル人もオランダ人も盛に支那の生絲絹織物を輸入した――によつたが、その後我が國の生絲や絹織物の産出が盛大となり、今日では生絲や絹織物が、我が國に於ける第一番の輸出品となつて、過去に失つた所を十分現在に償ひつつあるではないか。

 ポルトガル人が始めて我が國に渡來した年代には異説があるが、天文十二年(西暦一五四三)説が一番正しい。その時我が國に渡來した最初のポルトガル人に就いては所傳區々で、容易に決定し難いが、多くの場合に有名なピント(Fernam Mendez Pinto)がその一人として數へられて居る。ピントが果して最初のポルトガル人の一人であるかは隨分疑問であるが、彼の我が開國に關する記事は、假に彼の體驗でなく、人からの傳聞としても、相當信憑し得る樣に思ふ。彼ピントはポルトガル生れの貧乏人であるが、西暦一五三七年に一身代を起すべく東洋に出掛けた。爾來一五五八年に至るまで二十餘年の間、東洋諸國を放浪して、前後三十囘も捕虜となり、その間に軍人となり、或る時は官吏となり、或る時は商人となり、或る時は僧侶となり、或る時は海賊にもなり、或る時は奴隷にもなり、また或る時は乞食にすらなつたといふ、極めて波瀾の多い冒險的旅行家である。彼の『東洋巡歴記』はその死後に、十七世紀の初期に公にされて、廣く歐洲諸國人に愛讀されたが、その内容が如何にも奇怪で、可なり誇張もあるから出版の當初は荒誕なる虚構談として取扱はれ、シエクスピアの如きもピントを世界第一の虚言者と極印を付けて居る。されど今日では彼の『東洋巡歴記』の内容は、大體に於て事實と認められて來た。
 ピントの『東洋巡歴記』に據ると、彼は生活の爲に他の二人の同國人と共に、支那の海賊船の乘組員となつたが、この海賊船が難船して、我が大隅の種子島(Tanixuma)に漂着したから、ピントを始め三人のポルトガル人も我が國に上陸する事になつた。ピントはこの事件の年代を明記してないが、我が國の史料と對照すると、天文十二年(西暦一五四三)の出來事たること疑を容れぬ。ピントの同伴者の一人であるゼイモト(Diego Zeimoto)の携帶した鳥銃が、偶然その漂着地の領主の種子島|時堯《ときたか》の注意を惹き時堯はその鳥銃を買ひ受け、併せて製銃法、射撃法、火藥製造法などを傳習せしめた。こ
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