れが我國に新式鐵砲即ち鳥銃傳來の濫觴である。時堯はこの功勞によつて、去る大正十三年に正四位を贈られた。ピントはその後再三我が國に渡來したが、一五四七年に第二囘の來航の時、鹿兒島から二人の日本人を伴ひ、マラッカで東洋傳道の目的で來合せた、有名なザヴィエル(Francis Xavier)の手許に委託した。ザヴィエルはやがて天文十八年(西暦一五四九)に、この日本人の一人を案内者として我が鹿兒島に來て、傳道を始めた。かくて十六世紀の半頃から我が國に於ける歐洲人の傳道や通商が開始されるのであるが、歐洲人が我が國に來航後の宗教、經濟、藝術等に關する諸問題は、他の講師方が既に講演され、また今後講演されるはずであるから、私は唯我が國が歐洲諸國と通交を開くまでに、如何なる風に世界に知られて居つたかといふことを、大略紹介いたしたのである。

 私は今この講演を終るに際して、その結論として一言を申添へ置きたい。我が國は最初は朝鮮を通じて、大陸の文化を輸入し、ついで支那を通じて、支那固有の文化は勿論、印度や西域の文化をも輸入し、最後に歐洲諸國と交通して、西洋の文化を輸入したが決して此等諸種の文化を、漫然と無批判に無分別に我が國に輸入した譯でない。我々の祖先たる我が國の先覺者は、世界の新文化を我が國に輸入するに熱心であつたと同時に、その新文化を我が國體と同化せしむることに熱心であつた。到底我が國體と相容れない文化は、努めてその採用を遠慮した。その結果、西洋の文化でも、東洋の文化でも、我が國に傳來した以上は、渾然我が國體と融合して、我が國の文化となつて仕舞つた。丁度西流の河水も、東流の河水も大海に入りたる後は、等しく海水として、何等の區別なきと同樣である。我が國體を保存しつつ外國の文化を攝取することは、我が國の建國以來の方針で、過去の長い歴史を通じて實行されて來た。我が國には古く和魂漢才といふ言葉がある。日本の精神を保持しつつ、外國(漢)の知識を攝取する意味である。この言葉は菅公から始まつたと傳へられて居るが、言葉は兔に角、言葉に現はされた主義は、菅公以前からも實行され、菅公以後も實行されて居る。國家も生物と等しく、適者が發展して行く。我が國が建國以來連綿として今日に至るまで、適者の位置に立つことが出來たのは、全くこの和魂漢才主義、若くはそれと同一の意味をもつべき和魂洋才主義の御蔭である。昭和
前へ 次へ
全21ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング