Amacao)又は瑪港(Macao)を占領し、この地を極東の根據地として、日本や支那と貿易を營んだ。
後者の西廻航路を開いたのはスペインである。一體中世紀における歐洲は所謂暗黒時代で、學問は極度に壓倒された時代であつた。從つて當時のヨーロッパ人の世界地理に關する知識は憫然至極のもので、殊に東方アジアに關する知識は絶無と稱しても不可なき状態であつた。中世紀に十三世紀の頃まで、歐洲で普通に使用された地圖は、所謂O中にTを篏めたる地圖で、略上の圖の如きものであつた。
[#図1、中世にヨーロッパで用いられた地図]
すなはちキリスト教の聖地イエルサレムが世界の中心を占め、アジアは實際以上に狹小に描出されて居り、殊に中央アジア以東は極端に狹隘なる空間に壓迫されて居つた。所が元時代に多數の歐洲人が、蒙古や支那方面に往來して、アジアの東邊が意外に廣大なることを體驗すると、今度は從來の反動で、十五世紀頃の歐洲の地圖には、實際以上にアジアを廣大に描出して來た。それにマルコ・ポーロの旅行記に記載してある日本や支那に關する記事は、支那人から傳聞したもので彼此の距離は勿論支那里數を使用したのであるが、讀む歐洲人はこれをイタリーの里數と誤算した。イタリーの里長は支那の里長の約三倍もあるから、この誤算は愈※[#二の字点、1−2−22]實際以上に東方アジアを廣大ならしむる譯である。例へばマルコ・ポーロに據ると、ヂパング即ち日本は、(支那)大陸の東一千五百里の大海中にある大なる島であるが、この一千五百里といふ里數を、イタリーの里數として換算すると、經度二十五度に當るから、ヂパングは支那大陸より、東經二十五度を距てた大海中に存在せなければならぬ。然るに今日實際について見ると支那大陸の一番東端と日本の西端との距離は、約經度八度であるから、この誤算の結果として、支那とヂパング(日本)との距離は、實際の三倍以上に擴大された譯である。
元來歐洲では、古くギリシヤ時代から、世界は球形をなすものと考へられて居つた。世界が球形をなすものとすると實際以上に擴大膨脹されたアジアの東端は、段々東へ延び廻つて、自然に歐洲の西端に接近して來なければならぬ。それで十五世紀の後半期になると、歐洲の知識階級の間では、殊に地理學者の間では、アジアの東端にあるヂパング即ち日本は、歐洲の西邊のポルトガルやスペインと、實際以上に餘
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