。海路の方は南支那から印度洋を經て、紅海に出で今のスエズ邊りから上陸して、シリア若くはエヂプトに到達すると、茲にもイタリーの商賈が待ち受けて、彼等の手で東洋舶來の物産を、地中海の沿岸諸國に販賣するのである。
 所が困つたことは西暦十四世紀の中頃から十五世紀にかけて、トルコ帝國が勃興して來て、次第に勢力を張り、黒海もシリアもエヂプトも漸次にトルコの手に歸し、又は歸せんとする形勢になつて來た。かくてヨーロッパとアジアとの交通路が海陸ともにトルコの爲に威嚇され、又は遮斷されることになつた。元來歐洲諸國とトルコとは、不倶戴天の仇敵の間柄である。第一にトルコはマホメット教を奉じ、歐洲諸國はキリスト教を奉じて信仰を異にして居る。第二にトルコは新興の勢を擧げて侵略の手をヨーロッパ方面に向け、歐洲諸國と絶えず交戰するといふ有樣であつた。その宗教上政治上不倶戴天の仇敵たるトルコの爲に、大事な東洋方面との交通路を遮斷威嚇されることは、歐洲諸國にとつて堪へ難い大苦痛であつた。そこで十五世紀の半頃から歐洲諸國ではトルコの勢力から離れた、東洋への新交通路を發見すべく熱心に努力した。この發見に努力すべき新交通路は二筋ある。一つはアフリカの西海岸に沿うて東に向ひ、印度洋を經て東洋へ廻航せんとするもの、一つは西に向ひ大西洋を横斷して、東洋へ航行せんとするものである。前者は隨分迂回な航路ではあるが、海岸傳ひのこととて、新交通路とはいへ、寧ろ安全である。後者は距離は短縮かと想はれるが、頗る冒險な新航路といはねばならぬ。
 前者の東廻航路を開いたのがポルトガル人である。ポルトガル人は五十年に亙る努力の結果、西暦一四九七年にリスボン(Lisbon)から船出したヴアスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の艦隊がアフリカの南端を廻つて、その翌一四九八年の四月に印度のカリカット(Calicut)に到着して、首尾よく歐洲から印度に到る新航路を開いた。やがて彼等は一五一〇年に印度のゴア(Goa)を占領して東洋經營の根據地と定めその翌一五一一年に更にマレー半島の南端のマラッカ(Malacca)を略取し、一五一四年に始めて南支那に進出した。彼等が更に前進して我が日本の九州に到達したのは、その約三十年後の一五四三年の頃である。かくてポルトガル人は東廻航路によつてアジアの東端を極め、最後に一五五七年に南支那の阿瑪港(
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