で支那に滯在して居つた。一二九二年に世祖の皇女が同じ一族であるペルシアの王樣の許に嫁つがれることになつたので、その皇女を見送りかたがた歐洲へ歸ることになつた。かくて一二九二年にマルコ・ポーロ等の一行は、福建の泉州から船出して、印度洋ペルシア灣を經て、首尾よくペルシアの王廷に元の皇女を送り屆けた後ち、自分等は陸路小アジアを經て一二九五年に丁度足掛け二十五年目に故郷のベニスに歸着した。
ベニスでは浦島が龍宮から歸つた樣な大騷ぎで、彼の東洋に關する珍らしい物語を聽聞すべく、訪問者が市をなす有樣であつた。マルコ・ポーロは來集する訪問者を喜ばしめる目的で、東洋の豪華を物語る際に、誇張してよく百萬といふ數字を使用したから、やがて當時の人から「百萬のマルコ樣」(Messer Marco Millioni)といふ綽號を得たといふ。マルコ・ポーロが歸國すると間もなく、ベニスとゼノアとの兩市の間に戰爭が始まり、ベニス軍に加はつたマルコ・ポーロは敵軍に捕虜となつた。彼が西暦一二九八年にゼノア軍に捕虜となつて居る間に、彼の東洋見聞談を口授して人に書取らせた。これが有名なるマルコ・ポーロの旅行記である。元の世祖の日本入寇、即ち弘安四年(西暦一二八一)の役は、丁度このマルコ・ポーロの支那滯在中に起つた事件であるから、彼は勿論この事件を承知して、その旅行記の中に日本に關する記事を、比較的詳細に紹介して居る。
このマルコ・ポーロの旅行記に日本のことをヂパング(Zipangu)と書いてある。ヂパングとは日本國の支那音ジーペンクオ(〔Jih−pe^n−kuo〕)を訛つたものである。支那人は唐の頃まで我が國を倭國と稱したが、宋元時代には一般に日本國と稱することになつたから、支那人から我が國のことを傳へ聞いたマルコ・ポーロは、支那人の發音をその儘に、日本國をヂパングと書いたのである。兔に角日本國即ちヂパングといふ我が國號は、マルコ・ポーロによつて始めて歐洲人の間に傳へられた。彼の旅行記中の日本國に關する記事を紹介すると、大要次の如くである。
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ヂパングは「支那」大陸から東千五百|里《マイル》ばかり離れて、大海の中にある甚だ大きな島である。その國民は色が白くて非常に開化してゐる。……この國民の有する黄金は無限である。それはこの島から多量の黄金を産出するのに、その國王は「國民に」之を
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