「たが、十月十二日の午後、敷水鎭附近で、道の彼方に特別製の大車を目撃した。※[#「走+旱」、第4水準2−89−23]車的《ばしやのぎよしや》に問ひ質すと、何でも洋人の僞造した石碑を、西安から鄭州まで運搬する所で、その運搬を引き受けたのが、彼の朋友であるといふ。私の腦裏に直に、西安の景教碑と關係ある樣な疑惑が浮び上つた。果して然りとせば、此の如き石碑をいつの間に模造したか、又その模造の石碑は、如何なる程度まで原碑に似寄つて居るかと、種々好奇心が起つたけれども、生憎連日の降雨で、淤泥膝をも沒し、その上運搬の石碑は蓆包堅固で、實物を驗べることは到底困難の樣に見受けたから、遺憾ながら割愛して前程を急ぎ、鄭州で宇野君と南北に袂をわかち、私は十月の二十八日に北京に歸着した。
その翌明治四十一年の一月に、在上海の宇野君から書状が來て、その中に『漢口日報』(Hankou Daily News)に據ると、西安の景教碑買收に盡力した洋人といふは、Danish Journalist と稱するホルム(Fritz von Holm)其人であると書き添へてあつた。私達が西安旅行の途次、九月十四日に、※[#「門<
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