黷ホ、碑の將來に就いて心を傷め、果ては之をその本國に移して保護を加へたいと騷ぐのも、強ち無理でないと思はれた。
私は景教碑探望の翌々日に、咸陽・乾州・醴泉方面に、約一週間程旅行して、十月四日の午後、西安に歸着する時、西郭で十數の苦力が、一大龜趺を城内に運び行くのに出遇つた。歸途を急いだ故、別に問ひ質しもせず、その儘寓居に歸着した。所がその當夜西安在住の日本教習の話に、近頃一洋人が、金勝寺内の景教碑を三千兩に買收して、之をロンドンの博物館に賣り込む計畫に着手したのを、巡撫が聞き知つて大いに驚き、俄に景教碑を碑林に移し、その拓本をとるすら、官憲の許可を要するなど、警戒頗る嚴重を加へたと聞いて、途中で目撃した龜趺は、その古さといひ、その大きさといひ、必ず金勝寺の景教碑のそれならんと思ひ當るまま、越えて十月六日の朝、碑林に出掛けて調査すると、果して事實で、景教碑は碑林中に据ゑ付け最中であつた。私は兔に角千年來の所在地であつた、西安と景教碑との因縁のまだ銷盡せないのと、また景教碑が碑林に移されて、支那官憲の保護を受くることになつた結着に滿足して歸寓した。
私は十月九日に西安を出發して歸途に就
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