゚」、404−3]郷《ブンキヤウ》縣の公館の大王廟に投宿した所が、廟主の曹永森といふ道士が、二片の名刺を見せた。一は日本陸軍歩兵少佐日野強とあつた。即ち『伊犁《イリ》紀行』の著者である。一つは大丹國文士何樂模とあつた。この何樂模が、疑もなくホルム氏である。大丹國文士とは、Danish Journalist の譯、何樂模は即ち Holm の譯である。
 さるにしても私の西安旅行は、景教碑の買收若しくば模造の爲、西安に出掛けたホルム氏と終始したので、往路では偶然その人の名片に接し、西安滯在中はその人との因縁深い景教碑の碑林移轉といふ、この碑にとつては明末出土以來の大事件の實際を目撃し、歸途ではその人の模造碑の運搬されつつあるのに邂逅し、今日は又そのホルム氏から寄贈された景教碑の模型の披露に、紹介の講演をいたすとは、實に不思議の因縁と申さねばならぬ。
 さてホルム氏の景教碑の買收及び模造に關する記事は、その後ち『上海タイムス』(Shanghai Times)その他にも掲載されて、廣く内外の注意を惹くに至つたが、これと同時に、在留外人の間に、碑林に移轉された、景教碑の眞僞に就いて、疑惑を挾む者
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