i淨として記載されて居る。この事實も亦、景教碑が唐時代の眞物であるべき一の證據と認めねばならぬ(30)。
(六)[#「(六)」は縦中横]この碑に刻されてあるシリア文字は、エストランゲロ(Estrangelo)といふ、當時のネストル教徒の慣用した古體の文字で、明末支那に布教して居つたジェスイット派の宣教師達の大多數は、全くこの文字に關する智識をもたなかつた。現にセメドの如きも、ディアズの如きも、之を讀むことは勿論、そのシリア文字たることすら知り得なかつた。セメドがその後ち歐洲への歸途に、印度に立ち寄り、その地に滯在して居つた博識の同志に質して、始めてシリア文字たることを知つた程である。始めてこの碑のシリア文を譯出した人は、上述のローマのキルヘルスであるが、今日から見ると、その譯文には間違が尠くない。現代のシリア語專門の大家の説によると、キルヘルスを始め、十七世紀頃の歐洲の學者に、エストランゲロ體のシリア文を完全に譯し得た人は、殆どなかつたであらうといふ(31)。されば當時支那に布教したジェスイット派の人々が、此の如き解し難いシリア文を勒せる、景教碑を僞造し得る筈がない。
(七)[#「(七
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