A394−7]※[#「厂+至」、394−7]で發掘されて、西安に移轉されたものとせば、何が故にこの碑を、何等縁故のなかるべき金勝寺の後庭へ安置したであらうか。今日の金勝寺は、大體に於て唐代の大秦寺の所在地に該當するが、そは學者の研究を待つて始めて知られたことで、明末一般の人々が、かかる智識を有する筈がない。漫然移轉された景教碑が、唐代の大秦寺の舊址に安置される結果となつたとは、餘りに不思議ではあるまいか。
 要するに此等の事情は、景教碑の※[#「(幸+攵)/皿」、394−12]※[#「厂+至」、394−12]出土説を不可能ならしめ、その反對に、長安出土説の確實を保證するものと申さねばならぬ。即ち景教碑はその當初建立された、長安の義寧坊の大秦寺の境内に埋沒し、その大秦寺の舊址に當る、西安の西郊の金勝寺の境内から發掘され、大體に於て終始その位置を移動せざりしものと斷定する外ない(17)。
 さて明の天啓五年の初期頃に、西安の郊外で、景教碑が出土すると、間もなく碑文の洋譯が出來た。最初に出來たのは、西暦千六百二十五年に支那在住の耶蘇會士の手に成つたラテン譯である。こは多分トリゴオルトの譯であ
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