轤、といふ(18)。その後引續いて幾多の譯文が世に公にされた。イタリーのバルトリに據ると、西暦千六百六十二年頃までに、少くとも三ヶ國の言葉で書かれた八種の飜譯が公にされたといふ(19)。中に就いて尤も廣く世間に影響したのは、セメドの飜譯と、ボイム(Michel Boym 卜彌格)の飜譯とであらう。
 セメドは西暦千六百二十八年に、西安で景教碑を親覩した後ち、千六百三十七年に、澳門《マカオ》から一旦歐洲に歸り、千六百四十年にポルトガルに到着した。彼の有名な『支那通史』は、千六百四十一年にマドリッドでポルトガル語で出版された。その中に彼は景教碑の實際に就いて、より正確な報道を傳へ、併せてこの碑の譯文を附載してある。この書は間もなくスペイン語・イタリー語・フランス語・英語に譯出されて、廣く世界に讀まれた(20)。その後ち約十年を經て、ボイムは明の使命を帶び、千六百五十一年の初に澳門を出發し、その翌五十二年の末にイタリーに着した。この時彼がローマ教皇に奉呈した明の國書は、今日猶ほ教皇廰に保存されて居る(21)。ボイムはそのローマ滯在中に、千六百五十三年に、その齎らし往いた景教碑の拓本について、當時ローマに在住して居つた、教名をアンドレアス(Andreas)、マテウス(Matthaeus)といふ二人の支那人の助力を得て、碑の漢文をラテン語に譯出した(22)。かのキルヘルス(Kircherus)の『支那畫報』に收載されてある、景教碑の譯文は即ちこれである。
 景教碑が歐洲に紹介されると、早くその當時から碑の眞僞に就いて、疑惑を挾む者があつた(23)。碑文の廣く知らるるに從ひ、之に對する一部の學者の疑惑は益※[#二の字点、1−2−22]深く、中にもフランスのヴォルテール(Voltaire)の如きは、全くジェスイット派の宣教師達の僞作であるとて、手嚴しい非難を加へて居る。十九世紀に入ると、ドイツのノイマン(Neumann, 1850)や、フランスのルナン(Renan, 1855)、ジュリアン(Stanislas Julien, 1855)の如き(24)、有力な東洋學者が、景教碑に關する疑惑を發表した。ルナンやジュリアンは、特に景教碑のみに關する論文はなく、彼等の意見は別の題目の著書の中に附記されて居るのみであるが、ノイマンは「西安の僞造碑」と題する論文を、『ドイツ東洋協會時報』に掲載して居る(25)。
 之に對して景教碑の辯護論者も多いが、その中で尤も有力と認められるのは、フランスのポオチエ(Pauthier, 1857)と(26)、英國のワイリ(Wylie, 1854)とである(27)。ポーチエの論文は、ノイマン、ルナン、ジュリアン諸氏の疑惑に對して、有力な辯駁を加へて居る。ワイリの論文は、ポーチエ程論爭的でないが、新に彼の試みた尤も傑出した景教碑文の飜譯に添へて、彼の豐富なる支那學の智識を傾倒して、支那の金石學者の所説を利用して、この碑の僞造であり得ざることを保證して居る。ワイリは支那の有名な金石學者、例へば顧炎武とか、錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]とか、王昶とかいふ人達の、この碑に關する考證を紹介し、支那の學者は一人も、この碑の眞物たることを疑ふ者がないといふ事實を指摘して居る。ワイリより三十年餘り後に、オクスフォード(Oxford)大學のレッグ(Legge)も、その『西安府のネストル教碑』といふ著書中に、過去に於て、支那の一人の學者も、この碑の僞物たることを明言したる者がないというて居る(28)。
 されど比較的近代の支那の學者の中には、景教碑の僞作を主張した者もないでない。陶保廉の『辛卯侍行記』に載せられた、錢潤道の如きも、その一人で、
  此碑宋人金石書未[#二]著録[#一]。……似[#三]明人僞撰、託爲[#二]明時出[#一レ]土。
というて居る。また『皇朝經世文編初續』中に收めてある、闕名氏の「天主邪教入中國攷」にも、
  且僞[#二]造大秦景教流行碑[#一]。……埋[#二]西安府城外[#一]、佯掘[#レ]之。以證[#二]其教由來之久[#一]。
と記してある。勿論此の如きは稀有の例外で、支那學者の多數は、この碑の當時の眞物たることを疑はぬ。ワイリ、レッグ二人の言ふ所も、先づ正當と認めてよい。
 しかし今日では、景教碑の眞僞などは最早問題でない。この碑の眞物たることは、何等の疑惑を容れぬ。
(一)[#「(一)」は縦中横]この碑文の書體は、明かに唐時代のもので、明時代に僞作されたものでない。
(二)[#「(二)」は縦中横]この碑中に引用されてある、唐の太宗の貞觀十二年(西暦六三八)の阿羅本優遇の詔は、殆ど一字も違へずに、その儘『唐會要』卷四十九に載せられて居る。明末のキリスト教關係の人々が、『唐會要』の記事によつて、
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