A想像以上の大なる歡喜を齎らした。
[#ここで字下げ終わり]
 このセメドは漢名を魯徳照といふ。彼は西暦千六百二十八年に西安に出掛け、實地に就いて熱心に景教碑を研究した人である。當時支那在留の宣教師の中で、トリゴオルト(Nicholas Trigault 金尼閣)を除けば、尤も早く景教碑の實物を親覩した人であるから信用も厚く、從つて歐米の學界では、景教碑出土の状況に關しては、セメドの記事が權威と認められて、これに異議を挾む者が尠い。されどセメドの記事以外に、この古碑の出土の場所や事情や年代に就いて、異説がないでもない。出土の事情の異同は些事で、格別考慮するに足らぬが、場所や年代の異同は、一應の査覈を要する。先づ出土年代に關しては、セメドの所傳以外に、少くとも左の三異説がある。
(第一) 清初の錢謙益の景教考(『牧齋有學集』卷四十四所收)――多くの學者はワイリやアヴレさへも、この錢謙益を錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]と間違へて居る――には、明の萬暦年間(西暦一五七三年乃至一六二〇年)に、長安の住民が地を鋤く間に、偶然この碑を發掘したと記してある(9)。
(第二) 清初の林※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]の『來齋金石考略』卷下には、明の崇禎年間(西暦一六二八年乃至一六四四年)に、長安在住の官吏が、その幼童の死骸を埋葬すべく、長安の崇仁寺(金勝寺)附近の地を掘り下げて、この古碑を發見したと傳へて居る。
(第三) 明末の陽瑪諾の『唐景教碑頌正詮』の序には、この碑の發掘の次第を述べて、
  大明天啓三年(西暦一六二三)關中官命啓[#レ]土。于[#二]敗墻下[#一]獲[#レ]之。
と記してある。
 以上三説の中、第一第二の所傳は、年代も漠然で、採るに足らぬが、獨り第三の陽瑪諾の所傳のみは、幾分の注意を價する。陽瑪諾は洋名をディアズ(Emmanuel Diaz)といひ、景教碑出土の當時、浙江省杭州府に居つて、宣教師の中では、尤も早くこの碑の拓本を見得た一人である。彼は明の崇禎十七年(西暦一六四四)に、漢文で景教碑を解釋して、『唐景教碑頌正詮』と名づけ、杭州府の天主堂で出版したが、その序文に上述の如く、景教碑出土の年代を天啓三年と明記してある。この三年は或は五年の訛かとも疑はれるが、併し當時耶蘇會の出版は鄭重を極め、必三次看詳、允[#レ]付[#レ]梓
前へ 次へ
全23ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング