m#「厂+至」、393−16]地方に、大秦寺の存在したといふ何等の證據がない。その※[#「(幸+攵)/皿」、393−16]※[#「厂+至」、393−16]地方に、景教碑の建設される筈がないではないか。
(第三) もと長安に建設された景教碑が、ある時代に※[#「(幸+攵)/皿」、394−1]※[#「厂+至」、394−1]に移轉されたとは、到底考へられない。又かかる移轉説を可能ならしむる、何等の證據も理由もない。
(第四) 景教碑を尤も早く親覩した張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞もセメドも、皆景教碑は長安若くば長安附近から出土したものと明記して、※[#「(幸+攵)/皿」、394−4]※[#「厂+至」、394−4]の出土を傳へて居らぬ。
(第五) 景教碑の發掘された、又同時に安置された西安の西郊の金勝寺は、學者の研究によると、正しく唐代に大秦寺のあつた、長安の義寧坊の舊址に當る(16)。
(第六) 景教碑が※[#「(幸+攵)/皿」、394−7]※[#「厂+至」、394−7]地方から出土する譯は、萬々有り得べからざることであるが、假に一部の人達の信ずる如く※[#「(幸+攵)/皿」、394−7]※[#「厂+至」、394−7]で發掘されて、西安に移轉されたものとせば、何が故にこの碑を、何等縁故のなかるべき金勝寺の後庭へ安置したであらうか。今日の金勝寺は、大體に於て唐代の大秦寺の所在地に該當するが、そは學者の研究を待つて始めて知られたことで、明末一般の人々が、かかる智識を有する筈がない。漫然移轉された景教碑が、唐代の大秦寺の舊址に安置される結果となつたとは、餘りに不思議ではあるまいか。
要するに此等の事情は、景教碑の※[#「(幸+攵)/皿」、394−12]※[#「厂+至」、394−12]出土説を不可能ならしめ、その反對に、長安出土説の確實を保證するものと申さねばならぬ。即ち景教碑はその當初建立された、長安の義寧坊の大秦寺の境内に埋沒し、その大秦寺の舊址に當る、西安の西郊の金勝寺の境内から發掘され、大體に於て終始その位置を移動せざりしものと斷定する外ない(17)。
さて明の天啓五年の初期頃に、西安の郊外で、景教碑が出土すると、間もなく碑文の洋譯が出來た。最初に出來たのは、西暦千六百二十五年に支那在住の耶蘇會士の手に成つたラテン譯である。こは多分トリゴオルトの譯であ
前へ
次へ
全23ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング