n。日纏參初度。涼菴居士李我存。盥手謹識。
[#ここで字下げ終わり]
とあるから、この文は天啓五年(西暦一六二五)乙丑の歳の陰暦四月十六日(陽暦の五月二十一日)に書かれたこと疑を容れぬ(10)。
 さて鳳翔府と杭州府とは、相距ること約三千五百支那里である。支那の如き交通や報道の機關の不十分な状態の下に、張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞が態※[#二の字点、1−2−22]西安に出掛けて、景教碑の拓本を手にしたのは、勿論その碑の出土後、相當の時日を經過したこと申す迄もない。その拓本を水陸三千幾百里を隔つる杭州府まで送寄するには、必ず多大の時日を要する。現にセメドは、西安杭州間を一ヶ月半の行程と記して居る。然もその拓本の杭州に到着したのは、天啓五年の四月であつた。此等の事情を綜合して考一考すると、景教碑の出土は、後くも天啓五年の早春か、若くばその一二年以前かも知れぬ。從つて陽瑪諾の天啓三年説も、一概に否定し難い樣に思ふ。併しこは重大なる問題で、輕々には論斷を下し難い。私は單に一つの疑問といふに止める。序ながら私がこの疑問を『藝文』に發表した數年の後ち、さきに紹介した宣教師のアヴレの『西安府のキリスト教碑』を閲讀した所が、アヴレも亦この點に就いては、私と略所見を同くせることを發見して(11)、頗る我が意を強くし得たことを、茲に附記して置く。
 次に景教碑出土の場所に就いては、西安の外に※。近時では景教碑の研究者として、尤も著聞して居る例のアヴレが、この説の熱心なる支持者で、そのアヴレの影響を受けた、英國の宣教師のモウル(Moule)や(13)、我が佐伯好郎氏なども(14)、同樣にこの説を主張して居るが、到底成立し難いと思ふ。左に簡單にその理由を述べる。
(第一) この景教碑文を作つた大秦寺の僧景淨は、長安の大秦寺の僧と認めねばならぬ。殊にこの碑の施主又は建設者である、バルク(王舍城)産のイザドブジド(伊斯?)は、長安の大秦寺の司祭及び司教代理たることは、碑のシリア文に明記してある(15)。景淨やイザドブジドの關係から推して、この碑はもと長安城内の義寧坊に在つた大秦寺の境内に建設されたもので、※[#「(幸+攵)/皿」、393−15]※[#「厂+至」、393−15]地方に建設されたものでないことがわかる。
(第二) 唐時代に※[#「(幸+攵)/皿」、393−16]※
前へ 次へ
全23ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング